歴史にみる教育のあり方⑧ vol.1085
◇ 佐賀藩には「弘道館」という 一大藩校があった。 生徒を内生と外生という 2つの校舎に分け、 まず、6-7歳になると 外生として小学に入れた。 それから16-17歳…
◇ 佐賀藩には「弘道館」という 一大藩校があった。 生徒を内生と外生という 2つの校舎に分け、 まず、6-7歳になると 外生として小学に入れた。 それから16-17歳…
◇ 佐賀藩も、 会津藩のありさまに近い。 藩が教育を握り、 藩士の思想を鋳型にはめ、 藩校で官僚を育てていた。 要職者は、みな学校成績の よい人間から選んだ。 ◇ 佐賀藩…
◇ 会津藩では日新館の外でも 子供の教育をした。 「ならぬものはならぬ」で有名な 「什(じゅう)の掟」 である。 年長者の位言うことに 背いてはなりません &n…
◇ 会津藩の厳しさは、 人間評価の価値基準と 行動内容を決めただけでなく、 これによって 「選挙」と「子吟味」 をやったところにある。 藩の定めた道徳価値で、 子供を徹底的に吟味した。…
◇ 会津藩は、下の農民から、 上は殿様まで基盤の目を引く。 この「基盤の目を引く」 これが会津藩のキーワードになった。 それぞれ身分ごとに、 「すべきこと」 &…
◇ 田中玄宰は 「俺は家老を休む」と言って、 1年間、徹底して勉強。 全国の藩政を研究し、 教育によって藩士を締め付け、 藩を立ち直らせた実例を 見つけだした。 それが 熊…
◇ 会津藩は、「日新館」という 非常に優秀な藩校を持っていた。 会津藩とか、薩摩藩とか、 藩について語るときには、 その藩が教育の根幹に据えている 根本思想や世界観が重要となる。 &nbs…
◇ 本日からシリーズで 「教育」というものを 歴史的観点から 眺めてみたいと思う。 特に幕末から維新にかけての 各藩の人材育成がおもしろい。 ふつう、 歴史学者は過…
◇ 江戸の寛政年間には 「寛政の三奇人」 と呼ばれる人がいた。 林子平(経世家) 高山彦九郎(尊皇思想家) 蒲生君平(儒学者) の3人だ。 ◇ たとえば高山は、 …
◇ 最大の誤算は西軍首脳の 戦略目標にブレがあった点だ。 西軍首脳に数えられるのは 三成のほか、 毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、 小西行長、安国寺恵瓊--と多い。 …
◇ 「怜悧(れいり)な インテリ官僚という 石田三成のイメージは、 後世の間違いで、 武将としての資質を備えていた」 ――と、 中野等・…
◇ 中国で最高のヒーローは 誰かと聞くと、 「岳飛」という答えが返ってくる。 岳飛は南宋時代の武将で、 民衆にも絶大な人気を誇っていた。 その岳飛の影響力拡大を恐れた 宰相の「秦檜…
◇ トンビたちの世代は 学校の授業では、 端的にいって 「日本は無謀な戦争をして負けた」 と教えられてきた。 そんななかで会田雄次氏の 『アーロン収容所』(中公新書) に出会っ…
◇ 戦時下の暮らしを つぶさに知る世代は、 若い人でも75歳の坂を越えている。 戦後生まれのトンビは、 戦争体験者である祖父母や母から 当時の話をじかに聴いた世代である。 トンビの後ろ…
◇ ロシアの皇太子ニコライの 日本訪問は、 1891年(明治24年)、 滋賀県で警備の巡査・津田三蔵に 切りつけられて負傷した、 あの 大津事件 である。 ◇ 裁判では、…
「戦国策」: 前漢末の学者劉向(りゅうきょう)が、 皇帝の書庫にあった「国策」「国事」 などの竹簡を編んで作ったのが『戦国策』 …
◇ 大村益二郎は、もともと 村医者の子に生まれた。 そこで彼が最先端の蘭学や兵学を学び、 ついには日本の陸軍をつくる という大仕事をやってのけた。 司馬遼太郎は、大村の他にも 緒方洪庵…
出る月を待つべし 散る花を追うことなかれ ◇ 中根東里は徳川時代に存在した あらゆる学者の中で、 もっとも清貧に生きた人である。 驚くべき思想に…
◇「万世一系」の日本と 「易姓革命」の中国は非常に対極的だ。 *万世一系 永久に一つの系統が続くこと。 特に皇室についていう。 *易姓革命 姓をか(易)え、命をあらた(革)めるという…
◇トンビは昔から、 日本は30年周期で大きな変化が 起きていると考えている。 ・1930年からの大きな戦争があった時代 ・1960年からの高度成長時代 ・1990年からのバブルの 後…