石田三成の戦略ミス②  vol.1050

最大の誤算は西軍首脳の

    戦略目標にブレがあった点だ。

 

 西軍首脳に数えられるのは

 三成のほか、

 

毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、

小西行長、安国寺恵瓊--と多い。

 

三成が考えていつ方針で

皆が一致したわけではなかった。

 

これまでは

三成が「反徳川」のリーダーとして、

 

毛利や宇喜多らを誘い込んで

関ケ原の戦いに臨んだと、

 

説明されてきた。

 

しかし

「秀吉死後の権力闘争と関ケ原前夜」の
       (日本史史料研究会)

 水野伍貴氏は、

 

「三成は西軍首脳の1人ではあっても

            首謀者ではない」という。

 

単独で反徳川闘争を始動し、

後から大々名へ協力を呼びかけるような

無謀な人物ではなく、

 

むしろ毛利、宇喜多ら大老グループが

積極的だったため連携に踏み切ったという。

 

西軍は共同謀議で決起したが、

豊臣家を守るという三成の思惑と、

毛利家を拡大したいという輝元の思惑が、

 

異なる同床異夢状態が

西軍の弱点だった。

 

◇ その毛利輝元が、

 家康との不戦協定へ

 スタンスを変えていく。

 

その理由は、

(1)上杉征討軍のほとんどが

   そのまま家康に従ったこと

 

(2)岐阜城が簡単に陥落したこと

 

(3)大津城・京極氏の離反――

 

といった西軍の予想外の

不利な状況が続いていたためである。

 

従来は毛利一族の武将であった

吉川広家が、

 

独断で黒田長政ら東軍と交渉したと

されてきたが、

 

最新の研究では輝元自身の指示で

吉川広家が動いたとされる。

 

輝元が信頼する側近で、

戦後には西軍首脳の1人として

処刑される安国寺恵瓊も、

そうした自軍の動きを黙認していたという。

 

◇ 結局「毛利軍の不戦」と

 「小早川秀秋の裏切り」が

 

関ケ原合戦の東軍勝利を

決めたのは周知の通りだ。

 

だが戦後処理は輝元の期待と裏腹に

領国を約3分の1に減封されるという、

 

結果に終わった。

 

三成の戦略ミスがなければ、

歴史は大きく変わることになる。 

            完

 

 

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