夏目漱石の教えた学生と正岡子規 vol.993

夏目漱石が熊本の旧制五校で

    教えていたときである。

 

 一人の学生が漱石の自宅を

 訪ねてきた。

 

用件は、

 

「試験をしくじった友人を

     落第させないでください」

 

という陳情であった。

 

自分の親類の男で、

家が貧しくて人から学資の支給を

受けているので、

 

もし落第すると、

それきりその支給を断たれる

恐れがあるという内容であった。

 

漱石は快く会ったが、

黙って話しを聞くだけで、

その件について何も言わない。

 

この学生は、

  重大な使命を果たしたあと、

 

 いままで疑問に思っていたことを

 勇気を出して漱石に聞いてみた。

 

「俳句とは

 一体どんなものですか?」

 

漱石は真面目にこう答えたという。

 

俳句はレトリックの煎じ詰めた

ものである。

 

扇のかなめのような

集中点を指摘し描写して、

 

それから放散する連想の世界を

案じするものである。

 

花が散って雪のようだ”  といった

ような常套の描写を月並みという

 

 こういう句はよくない。

 

秋風や白木の弓につる張らん

 

といったような句は、

よい句である。

 

いくらやっても

俳句のできない性質の人があるし、

始めからうまい人もある。

 

要領を得た見事な説明である。

 

この学生は、

    こんな話を聞かされて、

 

 急に自分も俳句がやってみたくなった。

 

   そうして、

 その夏休みに国へ帰ってから、

 

   手当たり次第の材料をつかまえて

   二三十句ばかりを作った。

 

夏休みが終わって

九月に熊本へ着くなり、

 

何より先にそれを持って

先生を訪問して、

自分の作品を見てもらった。

 

その次に行った時に返してもらった

その句稿には、

 

短評や類句を書き入れたり、

添削したりして、

 

その中の二三の句の頭に

や二重丸が付いていた。

 

自分の持って行く句稿を、

 漱石自身の句稿といっしょに

 正岡子規の所へ送り、

   子規がそれに朱を加えて返してくれた。

 

 そのうちのいくつかの句が

「日本」新聞の最下段左すみの

 俳句欄に載せられた。

 

それから病みつきとなり、

ずいぶん熱心に句作をした。

 

高等学校を出て大学へ入る時に、

    先生の紹介をもらって、

 

 上根岸鶯横町に病床の

 正岡子規子をたずねた。

 

その時、子規は、夏目先生の就職

その他についていろいろ骨を折って

運動をしたというような、

そんな話をして聞かせた。

 

そしてその学生は、

死ぬまで俳句を作り続けた。

 

  その学生の名は、

 

   寺田寅彦

 

 のちの物理学者である。

 

随筆家としても知られ、

数々の名文を残している。

 

「天災は忘れたころにやってくる」

 の警句は、彼に由来する。

 

寺田寅彦は、

 漱石から二つのことを

    教わったと書いている。

 

   ひとつは、

 

自然の美しさを

自分の目で発見すること。

 

もうひとつは、

 

人間の心の中の真なるものと

偽なるものとを見分け、

そうして真なるものを愛すること。

 

この二つである。

 

寺田寅彦氏が訪れた

  根岸の正岡子規宅は、

    現在の山手線鶯谷駅を下車し、

 

 ラブホテル街を抜けたところに

 「子規庵」として、

 いまなお保存されている。

 

  有名な

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

   ここで詠まれた句である。

  

  

*今日一日の人生を大切に!

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