「江戸無血開城」陰の主役・山岡鉄舟の抜てき人生 ② vol.527

 

◇ 鉄舟は勝海舟と全く面識がなかった。

 

開国派だった勝と攘夷派の鉄舟は

そもそも接点がない。

 

逆に勝は先輩から

「鉄舟はおまえを殺すかもしれない」

と忠告すらされていた。

 

しかし勝は、最初の面会で鉄舟を

 

「こやつめ、

   なかなかふざけたものではないわい」

 

と評価した。

 

鉄舟がこれからは幕府と薩摩を差別せずに

挙国一致で行くべきだとの意見を述べ、

「精神不動」の態度を見たからだという。

 

勝は西郷への書状と、

江戸で捕縛していた薩摩藩士の益満休之介を

護衛として鉄舟に付けて送り出した。

 

益満は西郷の指令で江戸市中の

かく乱工作を担当していたが、

かつて「虎尾の会」のメンバーでもあった。

 

意外なところで人脈がつながっていた。

 

鉄舟は39日に駿河に到着。

 

東征軍は15日に江戸総攻撃を決めていたが、

慶喜が恭順の実行を示せば、

寛大な処置も検討する方針だった。

 

西郷はこうした方針を鉄舟だけに伝えた。

 

敵中を堂々通ってきた鉄舟の胆力に、

一目置いたからだろう。

 

天璋院篤姫(13代・家定正室)らから

慶喜助命の嘆願書が来ても

江戸城の本当の実情がよく分からない。

 

鉄舟だけが慶喜の本心を西郷に伝えた。

 

西郷は、城明け渡しや武器の引渡し、

慶喜を備前藩に預けるーー

などの7条件を鉄舟に示した。

 

7条件のうち「備前藩お預け」を、

鉄舟は即座に独断ではねつけた。

 

「朝命だ」と突っぱねる西郷に

 

「立場を変えて、

  島津公が同じ処置をされそうになったら

  西郷先生は受けられるのか」

 

と言って西郷を説き伏せた。

 

議論で負けた格好だが、

西郷はかえって鉄舟の人間性を

高く評価するようになる。

 

慶喜の謹慎場所は、本人の生家である

水戸藩という好条件に変更された。

 

鉄舟も西郷の人間性に惚れ込んだ。

                                   つづく

今日一日の人生を大切に!

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