「江戸無血開城」陰の主役・山岡鉄舟の抜てき人生 ① vol.526

 

◇ 幕末・維新の時代に、

    徳川幕府と明治新政府の双方から

    重用されたのが「江戸無血開城」の

    陰の主役  山岡鉄舟 だった。

 

しかも戦火を交えた敵味方の政権から

ともに人格の高潔さをたたえられるという、

史上まれに見る生きざまだった。

 

山岡鉄舟の軌跡は現在のビジネスパーソンにも、

さまざまなヒントを与えてくれそうだ。

「山岡鉄舟 決定版」(日本経済新聞出版社)

 

◇ 西郷隆盛に

   「金もいらぬ、名誉もいらぬ、

       命もいらぬ人は始末に困る」

     と言わせたのが山岡鉄舟である。

 

1968年(慶応4年=明治元年)3月に、

官軍を率いて江戸に迫る西郷と、

 

駿府(静岡市)で最初に直談判したのが

鉄舟であった。

 

「始末に困る人なければ、

 共に天下の大事を

 誓い合うわけにはいかない」

 

   と西郷は鉄舟を高く評価した。

 

鉄舟は、西郷と勝海舟との

江戸城明け渡しの会談にも同席した。

 

◇ 貧乏な旗本出身だが、剣・禅・書

    に通じた無私無欲なサムライであった。

 

鉄舟の特徴は目先の利害損失を

度外視した人間性にあった。

 

西郷も事を成就するためには、

自分の生命を投げ出してかかる傾向がある。

 

西郷は鉄舟の中に相通じるものを

感じたのかもしれない。

 

◇ 鉄舟の人間性を鍛えたものは

    何だったのだろうか。

 

少年のときから生涯続けた

剣の修行が大きく影響したと思われる。

 

若い頃は寝ても覚めても剣道を考え、

道を歩いていても竹刀の音がすれば飛び込んで

試合を申し入れ「鬼鉄」と呼ばれた。

 

剣道は単に試合に勝つとか

段位が上がるといったものだけではない。

 

鉄舟にとっては「心胆を練る」

精神修養の場であった。

 

禅も修行し剣禅一如の境地を目指した。

 

晩年には「一刀正伝無刀流」の開祖となり、

近代剣道にも大きな影響を与えた。

 

18681月の鳥羽・伏見の戦いに敗れた

    15代将軍・徳川慶喜は、

    海路江戸に戻って恭順の意志を示した。

 

しかし各方面から寄せられる

慶喜助命を要請する声に、

 

東征中の大総督府の反応は、

はかばかしくなかった。

 

そこで謹慎中の慶喜の側近から

直接使者を送ることになった。

 

最初の候補は、精鋭隊を組織して

慶喜からの信頼が厚い

高橋伊勢守(=泥舟)であった。

 

山岡の義兄で、

同じように誠実剛毅な旗本であった。

 

神業とまで言われた槍(やり)の達人で、

慶喜に朝廷への恭順を説き、

身辺警護をしていた。

 

ただ高橋を使者に送ると、

慶喜の安全が心配になる。

 

幕閣には、慶喜に自殺を勧めようという

密議もあったようだ。

 

そこで義弟の鉄舟を推薦した。

 

鉄舟は慶喜と面会し、謹慎の意志に

偽りがないことを確認した。

 

◇ 鉄舟には、無名の下級幕臣が突然、

    歴史の表舞台に登場してきたイメージがある。

 

無名どころか、幕府中枢にとっては

一種の危険人物であった。

 

20代の若いころの鉄舟は

「尊皇攘夷」の志士だった。

 

天皇を尊重し外敵から日本を守るという

当時の最新思想は、倒幕に直結しない限りは

幕府内にも勤王派は少数ながらいた。

 

◇ 鉄舟は清河八郎ら浪士や

 幕臣、薩摩藩士らと

「虎尾(こび)の会」を結成している。

 

新選組の前身ともいえる

浪士組の誕生にも尽力して、

 

近藤勇のライバルだった芹沢鴨の

ワガママを諫(いさ)めて、

おとなしくさせていた。

 

幕臣以外との交友関係も広かったのだろう。

 

ただ西郷に会う前に鉄舟は

幕府要人と面会して

意志の疎通を図ろうとしたが、

 

鉄舟の経歴を見れば幕臣とはいえ、

名の知れた剣客で、しかも過激派だ。

 

危険人物のレッテルが災いして

誰も会ってくれなかった。

 

例外が幕府の軍事総裁だった勝海舟であった。

                つづく

 

今日一日の人生を大切に!

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