◇ 鉄舟が西郷・勝会談に同席したのは、
万が一の幕臣からの襲撃から
西郷を護衛する意味もあった。
勝も、内乱を長引かせるような過酷な要求は
西郷の手腕で阻止されると考えていた。
◇ 勝には、相手が西郷であろうとも
スキを見せれば、すぐつけ込んで
好条件を獲得しようという
交渉人としてのすごみがあった。
しかし鉄舟には良くも悪くも
勝のような山っ気はなかった。
西郷は彰義隊の説得や脱走する
幕臣への対応を鉄舟に依頼した。
鉄舟もこれに応じた。
◇ 鉄舟は1873年(明治5年)に
明治天皇の教育のための侍従に
登用された。
依頼したのは西郷で、
明治以降は「人事ベタ」と酷評された西郷の、
数少ないヒット人事と言われている。
鉄舟は最初断わったが、
西郷、大久保利通が熱心に勧め、
勝も説得役となり「10年」という
期限つきで引き受けた。
◇ 若いころの明治天皇は臣下と
相撲を取るなどなかなかの武断派であり、
しかもワイン好きな酒豪家でもあったという。
鉄舟は情愛を持って養育係を
引き受けた。
ただし深夜2時、3時まで痛飲する
明治天皇を面と向かっていさめるなど
厳しい一面も見せた。
◇ 明治政府に仕えた幕臣には
勝や榎本武揚らがいる。
彼らは後に福沢諭吉の
「痩(やせ)我慢の説」で
痛烈に批判される。
鉄舟は福沢の非難対象に入っていないが、
どう考えていたのだろうか。
鉄舟は自己正当化するような人物ではない。
勝が鉄舟の出処進退について
「彼の心中には真の武士道がある。
武士道には形もあれば心もある。
形は心の発動だ。
その精神さえ一定不変であれば、
形は臨機応変なものだ」
と代弁している。
◇ 鉄舟の軌跡から現在のビジネスパーソンが
くみ取るべき教訓は何だろうか。
「最後まで人間性の修養を怠らないこと」
この一言につきる。
鉄舟は若い時分には尊皇攘夷の
危険人物として幕府からにらまれた。
しかし、意に介さず
一心に剣禅一如の修行を続けた。
約束通り宮内庁を辞職した鉄舟は、
剣と精神修行の道場として
「春風館」を設立。
その一貫した清々しい姿勢こそ
「始末に困る人」の真骨頂ということになる。
それが世俗的立場を超えて、
現代でも多くの人たちの心をとらえて
やまない魅力なのだろう。
こういう人物を組織の要所に
もつことができれば、
企業の不祥事なども未然に防ぐことが
できるのではないだろうか。 完
今日一日の人生を大切に!
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