◇ 幕末、黒船来航後の多難な政局に、
大老として登場したのが、
彦根藩主・井伊直弼(1815〜1860)であった。
彼は混迷する時勢に歯止めをかけるべく、
反対派の公家や藩主・諸藩士を
「安政の大獄」という大弾圧で締め上げた。
人々は直弼を「井伊の赤鬼」と呼んで憎悪した。
事の良否は置くとして、直弼もさぞや、
「心の不健康」(メンタル・イルヘルス)に
悩んでいたのではあるまいか。
しかし不思議なことに彼には、
これというストレスや症候群に
かかった形跡がなかった。
直弼には、日々の業務のかたわら、
「宗観」と号して、
茶の湯に没入する時間を持っていた。
◇ 茶の湯には、
緊張した現実から心を解放する、
俗世に相反する「聖」の作用が
あったことをうかがわせる。
その茶の湯を完成させた人物こそが、
「茶聖」と呼ばれた千利休であった。
戦国時代にはまだ、
心を解放する「自由」という単語は、
我が国には存在しなかった。
利休や同時代の人々は、
これを少し違った角度から
「数奇(すき)」と呼んだ。
だが、数奇者・利休の真姿を
とらえるのは、至って難しかった。
なぜならこの茶人は、
自刀という尋常ならざる最期を
遂げていたからである。
◇ 天正十年(1582)六月二日、
茶の湯をもって仕えていた信長が、
本能寺で横死する。
利休は、その家臣として
交際のあった羽柴秀吉が、
主殺しの明智光秀を山崎の合戦で
一蹴したことにより、
さらに自分の立場を上昇させた。
信長に仕えていた頃の利休は、
秀吉から「宗易公」と呼ばれていたが、
自身は第三者への書状などで、
秀吉を「筑州」「秀吉」と
呼び捨てるのを常としていた。
新しく君主となった秀吉に、
利休の心境はきわめて
複雑であったに違いない。
利休が秀吉に仕えて自刀するまで、
わずか十年に満たなかったことになる。
茶の湯はこの時、日本の芸事であった。
加えて利休は、豊臣家における
茶事=社交 を
司る不動の茶頭の立場となった。
しかしそれはいちめん、秀吉の政治顧問、
側近としての色彩を強めていくことになる。
政治や軍事上の機密にもたずさわり、
庇護者である秀長すら、
「内々の儀が宗易に、
公儀の事は宰相(秀長)存じ候」
といい、豊後の太守・大友宗麟にして、
「宗易ならでは、
関白(秀吉)さまへ一言も申し上げる人なし」
と驚嘆させるまでの、
隠然たる権勢を誇るまでになっていた。
◇ 切腹の理由は、
いくつかあげられる。
利休七哲(利休の高弟)のメンバーをみても
わかるように、キリシタンとも深い関係があった。
しかし利休がキリシタンであったか
どうかは定かではない。
おそらく、真の原因は、
己の茶の湯を鮮烈に残そうとした
ところにあったのではあるまいか。
そして利休を一番怖れていたのが
秀吉 であった。
利休めはとかく冥加ものぞかし
菅烝相(かんじょうそう)になるぞとおもえば
利休は、自分が死ぬことで
菅烝相=菅原道真
すなわち「神になる」といい、
最後の茶の湯を堪能すると、
悠然と切腹の座についた。
享年七十であったという。
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