神になった千利休の茶の湯 vol.220

 

◇ 幕末、黒船来航後の多難な政局に、

    大老として登場したのが、

    彦根藩主・井伊直弼(1815〜1860)であった。

 

彼は混迷する時勢に歯止めをかけるべく、

反対派の公家や藩主・諸藩士を

「安政の大獄」という大弾圧で締め上げた。

 

人々は直弼を「井伊の赤鬼」と呼んで憎悪した。

 

事の良否は置くとして、直弼もさぞや、

「心の不健康」(メンタル・イルヘルス)に

悩んでいたのではあるまいか。

 

しかし不思議なことに彼には、

これというストレスや症候群に

かかった形跡がなかった。

 

直弼には、日々の業務のかたわら、

「宗観」と号して、

茶の湯に没入する時間を持っていた。

 

◇ 茶の湯には、

     緊張した現実から心を解放する、

     俗世に相反する「聖」の作用が

     あったことをうかがわせる。

 

その茶の湯を完成させた人物こそが、

「茶聖」と呼ばれた千利休であった。

 

戦国時代にはまだ、

心を解放する「自由」という単語は、

我が国には存在しなかった。

 

利休や同時代の人々は、

これを少し違った角度から

「数奇(すき)」と呼んだ。

 

だが、数奇者・利休の真姿を

とらえるのは、至って難しかった。

 

なぜならこの茶人は、

自刀という尋常ならざる最期を

遂げていたからである。

 

◇ 天正十年(1582)六月二日、

   茶の湯をもって仕えていた信長が、

   本能寺で横死する。

 

利休は、その家臣として

交際のあった羽柴秀吉が、

主殺しの明智光秀を山崎の合戦で

一蹴したことにより、

さらに自分の立場を上昇させた。

 

信長に仕えていた頃の利休は、

秀吉から「宗易公」と呼ばれていたが、

 

自身は第三者への書状などで、

秀吉を「筑州」「秀吉」

呼び捨てるのを常としていた。

 

新しく君主となった秀吉に、

利休の心境はきわめて

複雑であったに違いない。

 

利休が秀吉に仕えて自刀するまで、

わずか十年に満たなかったことになる。

 

茶の湯はこの時、日本の芸事であった。

加えて利休は、豊臣家における

       茶事=社交   を

司る不動の茶頭の立場となった。

 

しかしそれはいちめん、秀吉の政治顧問、

側近としての色彩を強めていくことになる。

 

政治や軍事上の機密にもたずさわり、

庇護者である秀長すら、

 

「内々の儀が宗易に、

             公儀の事は宰相(秀長)存じ候」

 

といい、豊後の太守・大友宗麟にして、

 

「宗易ならでは、

  関白(秀吉)さまへ一言も申し上げる人なし」

 

と驚嘆させるまでの、

隠然たる権勢を誇るまでになっていた。

 

◇ 切腹の理由は、

    いくつかあげられる。

 

利休七哲(利休の高弟)のメンバーをみても

わかるように、キリシタンとも深い関係があった。

 

しかし利休がキリシタンであったか

どうかは定かではない。

 

おそらく、真の原因は、

己の茶の湯を鮮烈に残そうとした

ところにあったのではあるまいか。

 

そして利休を一番怖れていたのが

秀吉 であった。

 

利休めはとかく冥加ものぞかし

菅烝相(かんじょうそう)になるぞとおもえば

 

利休は、自分が死ぬことで

      菅烝相=菅原道真

すなわち「神になる」といい、

最後の茶の湯を堪能すると、

悠然と切腹の座についた。

 

享年七十であったという。

 

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