歴史にみる教育のあり方②  vol.1079

会津藩は、「日新館」という

  非常に優秀な藩校を持っていた。

 

会津藩とか、薩摩藩とか、

藩について語るときには、

 

その藩が教育の根幹に据えている

根本思想や世界観が重要となる。

 

会津藩では、程朱(ていしゅ)

 という朱子学の書物のうち、

 

 国政に必要な部分を書き抜き、

 それを藩士たちに学ばせた。

 

眼目は、「人の道」であった。

 

人は動物とは違う。

 

食い物を食べ、暖衣を着け、

ただ暮らすだけでは駄目だ。

 

教育なく暮らすのは

サルと同じだ。

 

そういって、会津藩は、

統治と教育を一体化して考える

思想を打ち出した。

 

教育が統治であり、

統治が教育である。

 

放っておけば、

動物同然になる下々(しもじも)を、

 

教え導くことが

政治の最高目標と

考える思想であった。

 

なるほど!

 

治め、そして、教える。

 

これを「治教」という。

 

この2文字が会津藩の

根幹思想になっていった。

 

ただ、江戸時代の初めから、

 このような学習が

 浸透してわけではない。

 

 会津藩も藩政中期まで、

 それほど藩校教育は

 なされていなかった。

 

全国的にも雨後のたけのこのごとく

藩校が設けられたのが、

 

1750年から1800年に

かけてのことで、

 

この時期に藩の財政状態が

行き詰まってきたのである。

 

天明の大飢饉に襲われ、

人口が減り、年貢収入が減って、

 

藩は借金で火だるまになった。

 

そこで改革者が現れる。

 

その名は 田中玄宰(はるなか)

 

世襲、世襲の、

ろくでもない家老が多い中に

傑物が現れたのである。

         つづく

 

<今日の名言>

万策尽きたと思うな!

自ら断崖絶壁の縁にたて。

そのときはじめて新たな風は必ず吹く。

 

*極限まで追い込まれたときに、
 はじめて見えてくるものがある。

 

今日一日の人生を大切に!

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