◇ 会津藩は、「日新館」という
非常に優秀な藩校を持っていた。
会津藩とか、薩摩藩とか、
藩について語るときには、
その藩が教育の根幹に据えている
根本思想や世界観が重要となる。
◇ 会津藩では、程朱(ていしゅ)
という朱子学の書物のうち、
国政に必要な部分を書き抜き、
それを藩士たちに学ばせた。
眼目は、「人の道」であった。
人は動物とは違う。
食い物を食べ、暖衣を着け、
ただ暮らすだけでは駄目だ。
教育なく暮らすのは
サルと同じだ。
そういって、会津藩は、
統治と教育を一体化して考える
思想を打ち出した。
教育が統治であり、
統治が教育である。
放っておけば、
動物同然になる下々(しもじも)を、
教え導くことが
政治の最高目標と
考える思想であった。
なるほど!
治め、そして、教える。
これを「治教」という。
この2文字が会津藩の
根幹思想になっていった。
◇ ただ、江戸時代の初めから、
このような学習が
浸透してわけではない。
会津藩も藩政中期まで、
それほど藩校教育は
なされていなかった。
全国的にも雨後のたけのこのごとく
藩校が設けられたのが、
1750年から1800年に
かけてのことで、
この時期に藩の財政状態が
行き詰まってきたのである。
天明の大飢饉に襲われ、
人口が減り、年貢収入が減って、
藩は借金で火だるまになった。
そこで改革者が現れる。
その名は 田中玄宰(はるなか)
世襲、世襲の、
ろくでもない家老が多い中に
傑物が現れたのである。
つづく
<今日の名言>
万策尽きたと思うな!
自ら断崖絶壁の縁にたて。
そのときはじめて新たな風は必ず吹く。
*極限まで追い込まれたときに、
はじめて見えてくるものがある。
今日一日の人生を大切に!
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