学びや教育の本質とは何か ② vol.637

 

◇ たとえば高校において、

    ある先生が

 「物理学の魅力」について全身全霊で語り、

 

 それがきっかけとなって

 教え子が物理の道に入り、

 

長じて、彼が世界を代表する物理学者に

なったとする。

 

そこまで至ったということは、

物理の魅力に寝食忘れてハマりこんだ、

 

ということだが、

 

それほどの魅力を、

生徒は高校時代に感じていたと

思えるだろうか。

 

◇ もちろん、一定の魅力を感じ、

 それがきっかけとなって、

 

 大学入学、さらに卒業して以降も

 物理の道を歩むことになったわけだが、

 

 物理学の持つ深遠な魅力的な世界に

 興奮し、没頭し、夢中になり、

 

すべてを捧げようと思った、というような、

 

そのレベルでの学びの喜びの存在は、

事後的にしかわからなかったはずだと思う。

 

◇ これは一つの例だが、

 何かの世界に没入していった人は、

   例外なく、

 

「分かってから始めたのではなく、

 分からないところから始めた」

 

いう段階から徐々に引き込まれている。

 

◇ それが学びの本質であるにもかかわらず、

 

 「ある分野に対して、

  学ぶ意味も喜びも見いだせないから、

  金輪際勉強しません」

 

 ということは、土台、

 

 「学び、という営みの

  根本から理解できていない」

 

 といって過言ではないだろう。

 

学びの根本を理解していないため、

学びに対して、意義も、意味も、

喜びも、楽しみも感じられるはずがない。

 

◇ それゆえ、

 学ぶ気も起きないから

 実際に学ばず、結果も出ないし、

 

ますます学ぶこと

そのものを否定することになる。

 

その結果がどうなるのかは、

「推して知るべし」ということだ。

 

◇ 真摯に教育に携わっている人たちは、

 みな、この矛盾に気づいている。

 

「本来、事後的にしかわからない喜びを、

   今、なんとかわからせようとしている」

 

 ということを。

 

◇ そして学習者は、反対に、

 

 事後的にしかわかり得ないことを、

 事前に(今)わかりたいと思い、

 

 今わからないものは勉強したくない、

 と考える。

 

◇ かくして、教育とは

 「教える側と教わる側」の間に

 

「真逆といえるくらいの認識の相違」

 

があるところから始めなければならない。

 

 そんな

 

てつもなく大胆で

   無謀なチャレンジ」

 

 ということになる。

               つづく

 

 

今日一日の人生を大切に!

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