中国の平成時代の栄枯盛衰から見えてくる日本の在り方 ① vol.647

 

◇ 平成元年の天安門事件で

    世界の信用を失ったものの、

 

その後驚異的な成長力で

GDP世界第2位にまで上り詰めた中国。

 

しかしそのきっかけとなったのが、

1992年の「天皇訪中」であったことは、

あまり知られていない。

 

◇ 平成は198917日から始まった。

 

    この年の64日、

    中国では天安門事件が起こった。

 

この事件で民主活動を弾圧し、

学生を含め多くの人民を殺した中国は、

 

欧米諸国から厳しい非難を浴び、

経済制裁や政府高官訪問禁止などの

措置を受けた。

 

◇ 西側諸国からの制裁により

    国際社会で孤立した中国は、

 

   悪化したイメージを回復させるために、

   天皇の訪中を繰り返し要請、

 

そしてついに平成41992)年10月、

宮沢喜一内閣時に天皇陛下の

中国ご訪問が実現した。

 

この天皇訪中をきっかけに、

西側諸国による中国への制裁は

次第に解除されていくことになる。

 

◇ 日本の天皇が中国を

    ご訪問されたということは、

    世界的に見てそれほど大きなことであった。

 

  実際、外相だった銭其シンは

  その回想録のなかで、

 

天皇訪中は、

 

「西側の制裁を打ち破る

     最も適切な突破口になった」

 

と書いている。

 

つまり天皇訪中を

中国は最大限に利用したことになる。

 

この天皇訪中の年から中国経済は急回復し、

1995年まで二桁成長が続いた。

 

中国の思惑は完全に的中したわけだ。

 

◇ 制裁を解除した西側諸国は、

    一転して中国の改革開放政策に傾斜し、

   どんどん中国への投資を増やしていった。

 

  こうして中国は急速に

   経済発展していくことになる。

 

そして天皇訪中からわずか20年足らず、

2010年のGDP中国は日本を抜き、

世界2位にまで上りつめた。

 

言うなれば、天皇の訪中がなければ、

中国がここまで経済発展することはなかった、

あるいはもっと遅れていたはずだ。

 

◇ 中国は日本に大きな恩があるはずだが、

    国際社会における存在感が増すと同時に、

    次第に日本を敵視するようになっていった。

 

天安門事件での民心離れを修復するために、

江沢民政権では反日教育が施され、

 

日本を中国人民共通の敵とすることで、

国をまとめようとしたからに他ならない。

 

片方で伏して

日本の天皇の訪中を懇願しながら、

 

片方で日本を貶めるという、

中国らしいやり方だが、

 

あまりに反日教育をやりすぎたために、

その反動も大きいものになった。

                              つづく

 

 

今日一日の人生を大切に!

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