学びや教育の本質とは何か ① vol.636

 

◇ 本日から3回に渡って、

   「学び」について、

    一考してみることにする。

 

◇ トンビは常日頃、

 

「すべての学びにおいて、

   その価値や、意味や、喜びは、

   事後的にしか分からない」

 

   と考えている。

 

本当に価値ある学びは、

 

「これを学んだら、これだけの価値が

 得られるはずだから学ぼう!」

 

という流れから生まれるものではない。

 

◇ はじめは、

 両親や先生、先輩や友人から、

 

わけもわからないけれども、

導かれるようにして、

わけのわからない学びを始める。

 

これが学習の事始め、スタートになる。

 

◇ たとえば、学校でわけもわからず、

    先生から半強制的に言われて、

 

   古文・漢文の勉強をさせられ、

 歴史の勉強をさせられ、

 数学の勉強をさせられ、

 化学の勉強をさせられ、

 

 あるいは家庭内でもわけもわからず、

 両親から言われて、

 

 読書の世界に触れさせられ、

 音楽の世界に触れさせられ、

 絵画の世界に触れさせられ、

 

 そのようなことに触れていくうちに、

 いつの間にやら徐々に、

 

    それも事後的に

 「あれ、これ面白いかも」

 という分野が浮き彫りになり、

 

 そのタイミングで

 主体的な学習が発動されることになる。

 

◇ ここでのポイントは,

 

 はじめから 

 その面白さを分かっていて、

 

 当該分野の勉強を主体的に

 始めようと思ったのではない、

 

 ということ。

 

つまり、どんな分野に対して

興味関心を持つことになるのかは、

 

「先生も両親はもちろん、本人も、

 はじめはなんにもわかっていない」

 

 ところから学びは始まる。

 

◇ たとえば、

    トンビが勉強会を主催したとして、

 

「この勉強会は、

 私にとって役に立つのでしょうか?」

 

 と質問されても、

 

 トンビが真摯に、誠実に

 回答しようとするならば、

 

「それは わかりません」

 

 と答えるしかない。

 

それが教育というものの

本質ではなかろうか。

 

◇ 先述のように

  ある人が、どんな分野に対して

  興味関心を持つことになるのかは、

 

 先生も両親も、もちろん本人も、

 はじめは なんにもわかっていない。

 

 そうしたところから、

 学びは始まるのである。

        つづく

 

 

 

今日一日の人生を大切に!

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