1945年の「東京立川憲兵隊事件」 vol.346

 

◇1945年8月8日午後、

     東京の中島飛行機武蔵製作所を

      空襲した1機のB29が、

      北多摩郡谷保村(現・国立市)に墜落し、

 

搭乗員12人のうち10人は墜落死、

2人が捕虜になった。

 

◇彼らは立川憲兵分隊へ連行された。

 

このうち1人は翌日の夕刻に

東京憲兵隊司令部へ送られたが、

 

もう1人の軍曹は、翌日の午後、

立川憲兵分隊長の少佐の指示で、

近くの錦国民学校の校庭に連れていかれた。
 (現・立川市立第三小学校)

 

そして、集まった800人の市民から

2時間にわたって竹の棒で殴打された。

 

◇ 老いた女性が「息子の敵(かたき)」

     叫んで殴りかかる。

 

   米国人は人間ではないと

   学校で教わった少年が、

    先の割れた竹刀を振るう。

 

希望者が多くて殴るのは 1人1回に制限された。

 

集まった800人の見物人が校庭にひしめく。

 

2時間にわたって竹の棒で殴打され、

彼は重態に陥った。

 

空襲警報で市民が立ち去った後、

彼は憲兵隊員によって近くの

正楽院墓地へ連行され、

 

立川陸軍航空廠の将校によって斬首され、

その場に埋められた。

           (GHQ報告書163号 より)

 

◇ 敗戦後、この事件の隠蔽のため、

   すぐ遺体を掘り返して焼却し、

 

    病院の医師に「墜落死」との

     死亡証明書を書かせるなど、

     証拠隠滅をはかったが、

 

匿名の投書などにより、

事件は米軍の知るところとなった。

 

事件の詳細は地元ではタブーとなったが、

後に市民グループが聞き取り調査をし、

 

「立川空襲の記録」として本にもなった。

 

市井の人々を鬼に変えたのは

    はたして何か。

 

昭和の一時期、

日本では国家が国民の心を奪い、

人を人としてみる目を失わせた。

 

人が良心を失い鬼になることは、

そう難しいことではない。

 

平成最後の戦争をかえりみる夏がゆく。

 

まもなく訪れる次の時代になると、

この事件も記憶の彼方へ忘れ去られてゆく

 

 

今日一日の人生を大切に!

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