歴史にみる教育のあり方 <最終回> vol.1092
◇ 明治維新の日本が持っていたものは、 「教育へのあくなき情熱」であった。 「郷中教育」をうけた西郷隆盛は、 政府の高官になっても教育をやめなかった。 自分が良いと思った価値を、 次世代に伝…
◇ 明治維新の日本が持っていたものは、 「教育へのあくなき情熱」であった。 「郷中教育」をうけた西郷隆盛は、 政府の高官になっても教育をやめなかった。 自分が良いと思った価値を、 次世代に伝…
◇ 薩摩藩士の子供は、 こんな思考訓練を千回以上も 繰り返していた。 西郷隆盛 や 東郷平八郎は、 こういう教育土壌の中から 出てきた人物といってもよい。 薩摩人は「もし、こ…
◇ 学問を実地に試す 薩摩の郷中教育は 「詮議」といものを生み出した。 「詮議」とは、 実際にはない状況を 頭の中で仮想させて、 対処を考えさせる いわゆるシュミレーションの ことである…
◇ 薩摩の家庭教育は 「東郷元帥詳伝」で、 その内容を垣間見る ことができる。 8歳ごろから 東郷平八郎は兄達と、 毎朝、未明に起きた。 それか…
◇ 薩摩で行われた青少年教育は 「郷中教育」(ごじゅう)という。 薩摩の郷中教育には、 決まった教室も校舎もない。 毎日、若者が集まって、 その日の集会場に他人の家の座敷を 借りる交渉から始ま…
◇ 会津と佐賀とは 違うタイプの教育も、 あの時代に存在していた。 薩摩溜の人材育成だ。 薩摩藩の制度は、 高禄の家臣はあえて政治にかかわらず、 経済のことは、 小禄の才知…
◇ 佐賀藩の「学問地獄」は激しい。 「明や清の登科及第法より厳酷」 とまで大隈は言っている。 彼のつくった早稲田の校風が 自由なのは、そのせいなのである。 会津や佐賀藩士は、 視野…
◇ 佐賀藩には「弘道館」という 一大藩校があった。 生徒を内生と外生という 2つの校舎に分け、 まず、6-7歳になると 外生として小学に入れた。 それから16-17歳…
◇ 佐賀藩も、 会津藩のありさまに近い。 藩が教育を握り、 藩士の思想を鋳型にはめ、 藩校で官僚を育てていた。 要職者は、みな学校成績の よい人間から選んだ。 ◇ 佐賀藩…
◇ 会津藩では日新館の外でも 子供の教育をした。 「ならぬものはならぬ」で有名な 「什(じゅう)の掟」 である。 年長者の位言うことに 背いてはなりません &n…
◇ 会津藩の厳しさは、 人間評価の価値基準と 行動内容を決めただけでなく、 これによって 「選挙」と「子吟味」 をやったところにある。 藩の定めた道徳価値で、 子供を徹底的に吟味した。…
◇ 会津藩は、下の農民から、 上は殿様まで基盤の目を引く。 この「基盤の目を引く」 これが会津藩のキーワードになった。 それぞれ身分ごとに、 「すべきこと」 &…
◇ 田中玄宰は 「俺は家老を休む」と言って、 1年間、徹底して勉強。 全国の藩政を研究し、 教育によって藩士を締め付け、 藩を立ち直らせた実例を 見つけだした。 それが 熊…
◇ 会津藩は、「日新館」という 非常に優秀な藩校を持っていた。 会津藩とか、薩摩藩とか、 藩について語るときには、 その藩が教育の根幹に据えている 根本思想や世界観が重要となる。 &nbs…
◇ 桐一葉・ 落ちて天下の秋を知る という言葉がある。 この言葉の生みの親は、 最後の相場師とも言われた 立花証券の元会長、 故・石井久氏 である。 昭和28年のスターリン死亡を きっかけに…
◇ 「吾輩は猫である。 名前はまだない」 この印象的な書き出しで 始まる文章は、 明治の文豪・夏目漱石の 「吾輩は猫である」という小説だ。 この夏目…
◇ 脳科学者の池谷裕二氏が その著書の中で、 学習にあたっては、 【 予 習 : 学 習 : 復 習 = 1/4 : 1 : 4 】 と書か…
◇ 元外交官で、作家の佐藤優氏は 小説を読む重要性を 次のように述べている。 人間が個人的に経験できることは 限られている。 そのため、優れた小説で代理経験を 積んでいくことは、 …
◇ 以前、江戸時代の朱子学に 関する本を読んだことがある。 強力な理論体系と きわめて合理的な発想から、 「人間はかくあるべし」とし、 やればできるんだ ! 聖…
◇ ある著名なK氏が、 経営者対象の講座を勤めた時のこと。 会場に入ると、最前列の席には、 著名な初老の社長が座っていた。 k氏はその社長の著書を 読んだことがあった。 緊張…