歴史にみる教育のあり方⑨  vol.1086

◇ 佐賀藩の「学問地獄」は激しい。

  「明や清の登科及第法より厳酷」

  とまで大隈は言っている。

 

 彼のつくった早稲田の校風が

 自由なのは、そのせいなのである。

 

会津や佐賀藩士は、

視野の狭い学びに

駆り立てられていた面が強い。

 

◇ 佐賀の「葉隠」では

  釈迦も孔子も楠木正成も

  武田信玄もいらない。

 

 「我が鍋島家に

    奉公したことのない人は、

  家風にあわない」

 

 「ただ御家(鍋島家)のために

  命を捨てればよい」

 

 と説いている。

 

◇ この一事をもって、

 大隈は後年あきれたように

 述懐している。

 

「会津や佐賀は、

 とにかく、主家だけが絶対で、

 

ひたすら、それに忠を尽くすことを

至上価値とする教育を徹底していた」 と。

 

◇ このような忠君教育は、

  明治中期から日本の臣民全体に

  ほどこされることになる。

 

 結果、明治日本は

 奇跡の勃典をとげたが、

 

 視野の広い判断とは決していえない

 あの昭和の戦争へとつながり、

 

ついには破綻した。

 

しかし、破綻したものの、

官僚制度は残り、

 

現代に綿々と

つながっているのである。

 

◇ 国家や組織が

 人材育成をなす場合、

 

 誤らないためには、

 

 何のため、

 誰の幸福のための教育か、

 

 その教育の価値親は

 広いものか  など、

 

根本理念が常に問われる必要がある。

 

そのことは歴史が示している。 
            つづく

 

<今日の名言>

いつかいつかと思うなら今

 株式会社武蔵野小山昇社長

 

*行動あるのみ!

 

今日一日の人生を大切に!

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください