◇ 「怜悧(れいり)な
インテリ官僚という
石田三成のイメージは、
後世の間違いで、
武将としての資質を備えていた」
――と、
中野等・九州大学教授は
こう言い切る。
中野教授は
「石田三成伝」(吉川弘文館)で
同時代の史料を徹底的に分析し、
「果断にコトを進める剛胆な」
石田三成像を描き出した。
◇ 三成が出世階段を上る
きっかけのひとつが、
賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで、
情報将校としての活躍であったことは
あまり知られていない。
◇「関ケ原」で決起してからの
三成の動きは、クーデターの
お手本とすらいえる。
最初は豊臣家から
「反乱者」と見なされていたが、
約1週間後に毛利輝元が
大阪城に入った時は、
三成は徳川家康に対して
圧倒的な優位を築いていた。
家康はしばらくの間、
忠実だったはずの奉行らが
三成側に寝返り、
自分が豊臣政府の最高権力者から
反乱軍の首領に転落していたのを
気付かなかったようだ。
その三成がなぜ敗れたのか。
◇ 中野教授は、
「家康の反転攻勢のスピードを
読み切れなかったことが大きい」
と指摘する。
それが兵力の分散を招いた。
同教授は、
三成ら西軍の戦略は、
支配地を拡大する「面」の戦い、
家康の戦略は、
中央突破を軸とする
「線」の戦いだったとみる。
西軍は京都・大阪を掌握したのちは
北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、
どの戦場でも有利に戦いを
進めていった。
また毛利軍は、四国、中国地方へも
出兵している。
その一方で兵力の分散のため、
三成が担当していた濃尾方面軍は
手薄になった。
その戦略ミスが現実化したのが
岐阜城の失陥であった。
◇ 岐阜城攻防戦では
兵力差が東軍約3万5千に対し、
西軍は約6千と
大きな差がついていた。
岐阜城主の織田秀信は
祖父・信長の例にならって
野戦を仕掛けるが完敗。
岐阜城も約半日で陥落してしまう。
岐阜城はいわば織田家の聖地で、
大きな意味を持っていた。
もし秀信が籠城策をとれば
東軍の福島正則、池田輝政ら、
かつての織田家の臣下は
攻めなかった可能性もある。
それまでの西軍有利の流れを
変えたダメージは大きく、
大阪城の西軍首脳にまで
動揺が広がったという。
◇ 実際、京極高次は、
西軍から離脱し約3千で
本拠地の大津城に立てこもった。
同城は9月15日に陥落するが、
その日がちょうど関ケ原合戦の当日。
攻城側の西軍1万5千の将兵は
決戦に間に合わなかった。
情報戦の面でも三成は
大きく後れを取っていたのである。
◇ 家康は反徳川で同盟した
東北の上杉景勝軍と、
三成ら西軍主力との
情報ルートを遮断していた。
三成は、中間地点の上田城で戦う
西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、
上杉軍と連絡してくれるよう
依頼している。
その真田宛の書状もいくつかは
家康の手にわたっていたという。
岐阜城陥落を知った家康は
江戸から最前線へ急行したが、
三成はその具体的な動きを
把握していなかったフシがある。
一方、家康は秀頼の不出馬など
大阪城の動きを確認できていたようだ。
その時、東西両軍に
保険をかけていた武将は大勢いた。
その状況を積極的に活用したのは
家康だった。
◇ 本来ならば戦場での戦闘より
情報戦こそが三成の
得意分野だった。
その三成が決起直後に、
自らを 豊臣政府軍、
家康を 反乱軍 と、
見なされたことで油断が生じた。
油断が兵力の分散や
情報戦の軽視を招いた。
秀頼を擁立している自分らに
積極的に攻めかかってくることは
あるまいと考えていた。
家康はその隙をついた。
さらに家康は秀吉死去前後から
多数派工作を行っていた。
「反乱軍」になっても家康に従う
強い意志を持った武将が少なくなかった。
つづく
今日一日の人生を大切に!
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