「修羅の巷を戦い抜こう」と決意させた言葉    vol.1011

田中角栄の秘書をしていた

    早坂茂三氏の著作

 

<捨てる神に拾う神─

 「もっと無器用に生きてみないか」>

 に出てくる言葉がある。

 

 

若い者はしくじる。

 

右も左も分からないのだから、

失敗は当たり前。

 

老人の跋扈は国を滅ぼす。

 

しかし、

青年の失敗は国を滅ぼさない。

 

私はそう思う。

 

だから、若い者は

やりたいことをやったらいい。

 

ウジウジして、

周りに気兼ねする必要はない。

 

そして、どつかれ、

こづかれ、けつまずき、

 

ひっくり返り、糞小便を浴び、

人に裏切られ、だまされ、

 

カスをつかみ、『われ誤れり』と

歯ぎしりをする。

 

それを繰り返しやって、

たくましい、

しなやかな知恵を身に付けることができる。

 

この修羅の巷で生きていけるようになる。

 

出来上がりのワンセット、

ワンパッケージの知恵など、

この世には存在しない。

 

この文章にトンビは

  感動すら覚える。

 

トンビも自ら苦難を求めて、

自身を鍛え抜き、

  

修羅の巷を戦って、

生き残れる知恵と力を

持つ人間になってやる、と

 

もう人生の終盤を迎えても、

そのような闘志が湧き立ってくる。

 

このような珠玉の言葉に触れるたび、

 

不安が取り除かれ、

その分、希望や可能性が充填される、

 

そんな感覚をも味わった。

 

その本の中には

  次のような言葉もでてくる。

 

意地を張っていると

言われるかもしれないが、

 

意地というのは、

人間が生きていくうえでの背骨だ。

 

背骨があるから頭が支えられている。

 

背骨があるから、

血液のもとになる骨髄液が、

日夜不断に再生産されていく。

 

意地というものを人間から取れば、

それは背骨なし、

つまり、クラゲになってしまう。

  (中略)

しかし、今、身のこなしが軽やかで、

何もかも分かっているような顔をして、

 

人の顔色を見ては達者に

スイスイ動き回っている

若い人たちがたくさんいる。

 

そういう背骨のないクラゲが群れている。

 

その種の若者を私は好まない。

 

こんな文章に触れると、

 

    意地を持って、小利口さを捨てて、

  泥をかぶり、恥をかいても、

 

    懸命に、

    骨太に生きなけれなならないと、

 

改めて確信した次第だ。

 

 

今日一日の人生を大切に!

  

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