格差はいづれ反転縮小するディストピアの世界 ②      vol.821

自己の可謬性の認識に立った社会は、

  多様な存在者の自由な行動に

  寛容な社会となるはずである。

 

自己の可謬性を認識すれば、

他者が自己を超える可能性を認識し、

 

他者を淘汰せずに

その可能性の存続を尊重し、

利用することが合理的な判断となる。

 

AIによって増強された超人類が現れても、

彼らが自己の可謬性を認識するならば、

 

弱者と共存する多様な社会を

維持することを目指すだろう。

 

そのような社会の仕組みは

    実は目新しいものではなく、

 

経済学者フリードリヒ・ハイエクが

思い描いた市場システムこそ、

可謬性に立脚した社会システムの原型である。

 

ハイエクは1945年の論文

「社会における知識の利用」で、

 

特定の時と場所にのみ存在する

無数の暗黙の知識を集計することは、

 

市場の価格調整メカニズムを

通じてしかできないと説いた。

 

中央計画当局や独裁者個人による

市場統制の社会(設計主義)は

必ず失敗すると強調したのである。

 

ハイエクの市場システムは

    多様な存在者が共存し、

 

   彼らの自由が最大限に

   優先される社会である。

 

自由が最優先されなければならない理由も、

可謬性から導かれる。

 

無謬の真理を誰も知らない社会では、

愚行(試行錯誤)をする権利、

すなわち自由を保障することが、

 

特定の時間と場所に散らばった情報を

集計するための最も道理に合った方法となる。

 

それ以外の統制的なルール

(例えばAIによる市場の制御)でも、

 

市場の情報を集計して効率的な社会を

作れると思われるかもしれない。

 

しかし可謬性の前提の下では、

そのルール自体が間違っている可能性があり、

 

おのおのの自由を保障する方が

よいということになる。

 

超人類は、定向進化で袋小路に

 入り込むなど淘汰のリスクを予想し、

 

生物多様性や人類の多様性を

残存させようとするだろう。

 

そのような経済社会を実現するために、

 

AIによって増強された人類にも、

そうでない大多数の人類にも、

さらには他の動植物にも、

 

固有の存在価値を認め尊重する

新しい自由主義の政治哲学を

生み出す必要がある。

 

ただし、新しいテクノロジーの下で

自由主義の社会を維持することは、

 

今まで通りの民主主義を

維持することとは異なるかもしれない。

 

ハイエクは固有の価値と

    情報を持つ多数の人々が行き交う

    市場システムの意義を説き、

 

自由主義の文化を守り育てることに

人生をかけた。

 

そのためには政治の改革が

必要だとして晩年に議会改革論を

詳しく論じたが、

 

それは一種の

制限民主主義(世代別の代表制)であった。

 

11票の無制限な民主主義でうまくいくと、

ハイエクは考えていなかった。

 

議会は無制限の立法権を

    持つわけではなく、

 

    万人が従うべき正義のルール

  「ノモス」は、

 

人々の知恵の集積として市場で

発見されるべきものだとハイエクは論じた。

 

それを発見するのが立法府の

本来の役割であり、

 

公共事業の配分など資源配分のための

指令「テシス」を作ることは、

ノモスの発見とは全く異なる仕事だという。

 

ノモスとテシスを混同していることが、

     現代の議会政治の機能不全を

    もたらしているとハイエクは喝破した。

 

自由を守るためには、

ポピュリズムに流れがちな民主主義を

補正しなければならないという指摘は重い。

 

これまでの生物進化や

    人間社会の進化のように、

 

淘汰の原理が今後も続く

ということは必然ではない。

 

そうならないために、

民主主義を適切なかたちに補正するとともに、

 

新しい「可謬性の政治哲学」の発見が

求められているのではないか。 

 

 

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