◇ 自己の可謬性の認識に立った社会は、
多様な存在者の自由な行動に
寛容な社会となるはずである。
自己の可謬性を認識すれば、
他者が自己を超える可能性を認識し、
他者を淘汰せずに
その可能性の存続を尊重し、
利用することが合理的な判断となる。
AIによって増強された超人類が現れても、
彼らが自己の可謬性を認識するならば、
弱者と共存する多様な社会を
維持することを目指すだろう。
◇ そのような社会の仕組みは
実は目新しいものではなく、
経済学者フリードリヒ・ハイエクが
思い描いた市場システムこそ、
可謬性に立脚した社会システムの原型である。
ハイエクは1945年の論文
「社会における知識の利用」で、
特定の時と場所にのみ存在する
無数の暗黙の知識を集計することは、
市場の価格調整メカニズムを
通じてしかできないと説いた。
中央計画当局や独裁者個人による
市場統制の社会(設計主義)は
必ず失敗すると強調したのである。
◇ ハイエクの市場システムは
多様な存在者が共存し、
彼らの自由が最大限に
優先される社会である。
自由が最優先されなければならない理由も、
可謬性から導かれる。
無謬の真理を誰も知らない社会では、
愚行(試行錯誤)をする権利、
すなわち自由を保障することが、
特定の時間と場所に散らばった情報を
集計するための最も道理に合った方法となる。
◇ それ以外の統制的なルール
(例えばAIによる市場の制御)でも、
市場の情報を集計して効率的な社会を
作れると思われるかもしれない。
しかし可謬性の前提の下では、
そのルール自体が間違っている可能性があり、
おのおのの自由を保障する方が
よいということになる。
◇ 超人類は、定向進化で袋小路に
入り込むなど淘汰のリスクを予想し、
生物多様性や人類の多様性を
残存させようとするだろう。
そのような経済社会を実現するために、
AIによって増強された人類にも、
そうでない大多数の人類にも、
さらには他の動植物にも、
固有の存在価値を認め尊重する
新しい自由主義の政治哲学を
生み出す必要がある。
ただし、新しいテクノロジーの下で
自由主義の社会を維持することは、
今まで通りの民主主義を
維持することとは異なるかもしれない。
◇ ハイエクは固有の価値と
情報を持つ多数の人々が行き交う
市場システムの意義を説き、
自由主義の文化を守り育てることに
人生をかけた。
そのためには政治の改革が
必要だとして晩年に議会改革論を
詳しく論じたが、
それは一種の
制限民主主義(世代別の代表制)であった。
1人1票の無制限な民主主義でうまくいくと、
ハイエクは考えていなかった。
◇ 議会は無制限の立法権を
持つわけではなく、
万人が従うべき正義のルール
「ノモス」は、
人々の知恵の集積として市場で
発見されるべきものだとハイエクは論じた。
それを発見するのが立法府の
本来の役割であり、
公共事業の配分など資源配分のための
指令「テシス」を作ることは、
ノモスの発見とは全く異なる仕事だという。
◇ ノモスとテシスを混同していることが、
現代の議会政治の機能不全を
もたらしているとハイエクは喝破した。
自由を守るためには、
ポピュリズムに流れがちな民主主義を
補正しなければならないという指摘は重い。
◇ これまでの生物進化や
人間社会の進化のように、
淘汰の原理が今後も続く
ということは必然ではない。
そうならないために、
民主主義を適切なかたちに補正するとともに、
新しい「可謬性の政治哲学」の発見が
求められているのではないか。 完
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