学びや教育の本質とは何か ③ vol.638

 

◇ 教育とは、

 

「とてつもなく大胆で

         無謀なチャレンジ」

 

   に他ならない。

 

この認識のギャップを

乗り越えてもらうためには、

 

教わる側が

 

「なんだかわけもわからないけれども、

   この人は私に対して、何か大切なことを

   伝えようとしてくれているようだ」

 

 ということを感じられるくらいに、

 

教える側が、全力を投入して

思いの丈を相手にぶつけるしかない。

 

◇ ここまで訴えかけて、

    ようやく

 

 「そこまでいうのなら、

  なんだか、わけもわからないけれども、

  一歩前に、足を踏み出してみようか」

 

 ということになり、

 

「向う側にある、豊穣な学びの世界」へと

導かれていくこととなるわけだ。

 

◇ つまり、伝える側からすれば、

     伝え手の熱狂によって、

 

    そこに何かがあると感じさせる

     より他にない

 

教師の熱狂だけが、

教育という「絶望的な営み」

希望に変えられるということになる。

 

◇ だが、

 こうやって最初のハードルは

 乗り越えられても、

 

 すぐに次のハードルがやってくる。

 

 それが

 「学ぶ人と、その分野との相性」

 ということになる。

 

せっかく教師が熱狂して伝えても、

 

当人の資質、能力、価値観等によって、

 

 「その分野との相性が合わなかった」

 

 ということが往々にしてあるのである。

 

この「相性の不一致」

教育という営みをさらに難しいものとする。

 

◇ 言葉を換えると、

    伝える側は事前に、

 

「これを学べば、

   あなたは絶対にこれを得られます」

 

 と断言はできないということ。

 

 上述の通り、対象となる分野との

 相性があるからだ。

 

 これもまた

 

 「教育に内包されている、

  構造的、絶対的な矛盾」

 

 ということになる。

 

◇ ここまでのことが理解された方は

  もうお分かりのことだろう。

 

「真に偉大なる学び手」は、

 以上をすべて承知した上で、

 

 あえて

 

「どう転ぶか分からないけれども、

 前に進まなければ分からないのだから、

 とりあえず、この人から学んでみよう」

 

 と一歩を踏み出せる人なのだ。

 

◇ この人は、

 ・学びにハズレがあるのは当然

 ・ハズレを織り込まない学び方など

  あるはずがない

 ・むしろほとんどハズレ、でもごくまれに、

  人生を変える流れ弾に当たることがある

 

 という世界観で前に進むから、

 

 ここにおいてかえって、

 教える側と教わる側との波長が合い、

 相互理解が進み、

 

「教育に内包されている、構造的、

    絶対的な矛盾が克服される突破口」

 

 が開かれることとなるのである。

 

◇ そもそも教育という営みそのものに、

  巨大な構造的、絶対的な矛盾が

  内包されており、

 

 それゆえ、

 人が人に教える、伝えるという行為は、

 

 「とてつもなく大胆で

            無謀なチャレンジ」

 

 であるわけだ。

 

◇ もしあなたが、

  このブログを読み、

 

 一定の同意や共感を

 感じてくださるのであれば、

 

何かを掴み取って

頂けるのではないだろうか。

 

ハズレの確率がないかといえば、

それは保証の限りではないが、

 

それが教育の本質ということになる。

                                          

 

 

今日一日の人生を大切に!

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