◇ 夏目漱石が熊本の旧制五校で
教えていたときである。
一人の学生が漱石の自宅を
訪ねてきた。
用件は、
「試験をしくじった友人を
落第させないでください」
という陳情であった。
自分の親類の男で、
家が貧しくて人から学資の支給を
受けているので、
もし落第すると、
それきりその支給を断たれる
恐れがあるという内容であった。
漱石は快く会ったが、
黙って話しを聞くだけで、
その件について何も言わない。
◇ この学生は、
重大な使命を果たしたあと、
いままで疑問に思っていたことを
勇気を出して漱石に聞いてみた。
「俳句とは
一体どんなものですか?」
漱石は真面目にこう答えたという。
俳句はレトリックの煎じ詰めた
ものである。
扇のかなめのような
集中点を指摘し描写して、
それから放散する連想の世界を
案じするものである。
“花が散って雪のようだ” といった
ような常套の描写を月並みという 、
こういう句はよくない。
“秋風や白木の弓につる張らん“
といったような句は、
よい句である。
いくらやっても
俳句のできない性質の人があるし、
始めからうまい人もある。
要領を得た見事な説明である。
◇ この学生は、
こんな話を聞かされて、
急に自分も俳句がやってみたくなった。
そうして、
その夏休みに国へ帰ってから、
手当たり次第の材料をつかまえて
二三十句ばかりを作った。
夏休みが終わって
九月に熊本へ着くなり、
何より先にそれを持って
先生を訪問して、
自分の作品を見てもらった。
その次に行った時に返してもらった
その句稿には、
短評や類句を書き入れたり、
添削したりして、
その中の二三の句の頭に
丸や二重丸が付いていた。
◇ 自分の持って行く句稿を、
漱石自身の句稿といっしょに
正岡子規の所へ送り、
子規がそれに朱を加えて返してくれた。
そのうちのいくつかの句が
「日本」新聞の最下段左すみの
俳句欄に載せられた。
それから病みつきとなり、
ずいぶん熱心に句作をした。
◇ 高等学校を出て大学へ入る時に、
先生の紹介をもらって、
上根岸鶯横町に病床の
正岡子規子をたずねた。
その時、子規は、夏目先生の就職
その他についていろいろ骨を折って
運動をしたというような、
そんな話をして聞かせた。
そしてその学生は、
死ぬまで俳句を作り続けた。
◇ その学生の名は、
寺田寅彦
のちの物理学者である。
随筆家としても知られ、
数々の名文を残している。
「天災は忘れたころにやってくる」
の警句は、彼に由来する。
◇ 寺田寅彦は、
漱石から二つのことを
教わったと書いている。
ひとつは、
自然の美しさを
自分の目で発見すること。
もうひとつは、
人間の心の中の真なるものと
偽なるものとを見分け、
そうして真なるものを愛すること。
この二つである。
◇ 寺田寅彦氏が訪れた
根岸の正岡子規宅は、
現在の山手線鶯谷駅を下車し、
ラブホテル街を抜けたところに
「子規庵」として、
いまなお保存されている。
有名な
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は
ここで詠まれた句である。
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