長い歴史のオリンピックもそろそろ終焉 ②    vol.750

他方、安倍首相は、

 バッハ氏と森氏に任せておけば

 優柔不断の二乗となって決断が遅れ、

 

延期もままならず中止に

追い込まれることを恐れたのだろう。

 

これを中止ではなく延期、

しかも2年ではなく、

 

自分の自民党総裁任期内の

1年延期に止めるべく、

権限外の場違いであることを厭わず介入した。

 

おそらく彼の頭脳の内では、

新型コロナウイルスという非常事態の

先頭に立って戦っているのは自分であり、

 

その非常事態の結果として

五輪の中止・延期を判断し、

 

バッハ氏とやりとりするのが

自分であって何がいけないんだ、

という一種の意識混濁があったに違いない。

 

しかし、今の状況では、

1年先の実施も危うい。

 

中止となれば、

 後手後手への非難を含めて

 責任論が噴き出して、

 

安倍首相は早期辞任となりかねない。

 

それを避けるには延期だが、

それも2年先では自分がどうなっているか

わからないから1年先なのである。

 

しかし、それはすべて自分の都合に見える。

 

自分のことはさておいて、

中止と延期でどちらが時間と

エネルギーと費用が少ないか、

 

延期の場合に1年先と2年先では

どちらが日程を組み替えやすくて

費用も最小で済むかなど、

 

まずは国民と世界のアスリートにとっての

メリット・デメリットを試算して提示し、

判断を仰ぐのが普通だろう。

 

このドタバタ劇から

  透けて見えるのは、

 

オリンピックはすでに

歴史的使命が終っているのではないか

という事実である。

 

オリンピック憲章が,

 

「オリンピック競技会は、

 個人種目または団体種目での

 選手間の競争であり、

 国家間の競争ではない」161

 

「国ごとの世界ランキングを

   作成してはならない」557項)

 

と定めているが、

これはほとんど空文である。

 

1908年の

  第4回ロンドン五輪から、

 

開会式の入場行進が国ごとに

国旗を掲げて行われるようになり、

 

それ以来オリンピックはもっぱら

「国威発揚」の道具として弄ばれてきた。

 

冷戦の終わりと共に、

そのような国家エゴの時代は

本質的には終わったはずなのだが、

 

米国を筆頭に多くの国々は

まだ20世紀へのノスタルジアから

自由になれずに相変わらず軍拡を続けていて、

 

そうであるからこそ五輪もまた

惰性で続けているのである。

 

そのためには

「世界最大のスポーツの祭典」

という虚構を膨らまし続けなければならない。

 

しかしそうは言っても

  世界3大球技と呼ばれる

 バスケット、バレー、サッカーは、

 

それぞれ独自の国際的な組織と

世界選手権に至る競技日程を持っており、

 

水泳、陸上、テニス、ラグビー、

卓球、ゴルフなどの競技もみな同じで、

オリンピックが頂点とはならない。

 

そこでIOCはそれらメジャーな

競技の国際連盟に補助金を注いで

何とか繋ぎ止めて体裁を繕う一方、

 

他に何かテレビ映りのよさそうな

新奇な競技はないかと探し回り、

 

これが本当にスポーツと言えるのかと

思うような曲芸まがいのものまで

参加させようとしている。

 

結果、オリンピックの大規模化が進み、

今回で言えば33競技339種目にまで膨らんだ。

 

そろそろ発想を転換して、

従来型のオリンピックを廃止して、

 

たとえば、

開催国をギリシャに固定するとか、

 

巨大スタジオ1つだけを会場にした

イベントにするとか、

 

オリンピックの在り方自身を

見直す時期に来ているのではなかろうか。

 

 

今日一日の人生を大切に!

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