◇ 他方、安倍首相は、
バッハ氏と森氏に任せておけば
優柔不断の二乗となって決断が遅れ、
延期もままならず中止に
追い込まれることを恐れたのだろう。
これを中止ではなく延期、
しかも2年ではなく、
自分の自民党総裁任期内の
1年延期に止めるべく、
権限外の場違いであることを厭わず介入した。
おそらく彼の頭脳の内では、
新型コロナウイルスという非常事態の
先頭に立って戦っているのは自分であり、
その非常事態の結果として
五輪の中止・延期を判断し、
バッハ氏とやりとりするのが
自分であって何がいけないんだ、
という一種の意識混濁があったに違いない。
しかし、今の状況では、
1年先の実施も危うい。
◇ 中止となれば、
後手後手への非難を含めて
責任論が噴き出して、
安倍首相は早期辞任となりかねない。
それを避けるには延期だが、
それも2年先では自分がどうなっているか
わからないから1年先なのである。
しかし、それはすべて自分の都合に見える。
自分のことはさておいて、
中止と延期でどちらが時間と
エネルギーと費用が少ないか、
延期の場合に1年先と2年先では
どちらが日程を組み替えやすくて
費用も最小で済むかなど、
まずは国民と世界のアスリートにとっての
メリット・デメリットを試算して提示し、
判断を仰ぐのが普通だろう。
◇ このドタバタ劇から
透けて見えるのは、
オリンピックはすでに
歴史的使命が終っているのではないか
という事実である。
オリンピック憲章が,
「オリンピック競技会は、
個人種目または団体種目での
選手間の競争であり、
国家間の競争ではない」(1章6項1)
「国ごとの世界ランキングを
作成してはならない」(5章57項)
と定めているが、
これはほとんど空文である。
◇ 1908年の
第4回ロンドン五輪から、
開会式の入場行進が国ごとに
国旗を掲げて行われるようになり、
それ以来オリンピックはもっぱら
「国威発揚」の道具として弄ばれてきた。
冷戦の終わりと共に、
そのような国家エゴの時代は
本質的には終わったはずなのだが、
米国を筆頭に多くの国々は
まだ20世紀へのノスタルジアから
自由になれずに相変わらず軍拡を続けていて、
そうであるからこそ五輪もまた
惰性で続けているのである。
そのためには
「世界最大のスポーツの祭典」
という虚構を膨らまし続けなければならない。
◇ しかしそうは言っても
世界3大球技と呼ばれる
バスケット、バレー、サッカーは、
それぞれ独自の国際的な組織と
世界選手権に至る競技日程を持っており、
水泳、陸上、テニス、ラグビー、
卓球、ゴルフなどの競技もみな同じで、
オリンピックが頂点とはならない。
そこでIOCはそれらメジャーな
競技の国際連盟に補助金を注いで
何とか繋ぎ止めて体裁を繕う一方、
他に何かテレビ映りのよさそうな
新奇な競技はないかと探し回り、
これが本当にスポーツと言えるのかと
思うような曲芸まがいのものまで
参加させようとしている。
結果、オリンピックの大規模化が進み、
今回で言えば33競技339種目にまで膨らんだ。
そろそろ発想を転換して、
従来型のオリンピックを廃止して、
たとえば、
開催国をギリシャに固定するとか、
巨大スタジオ1つだけを会場にした
イベントにするとか、
オリンピックの在り方自身を
見直す時期に来ているのではなかろうか。
今日一日の人生を大切に!
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