「江戸無血開城」陰の主役・山岡鉄舟の抜てき人生 ③ vol.528

 

◇ 鉄舟が西郷・勝会談に同席したのは、

    万が一の幕臣からの襲撃から

    西郷を護衛する意味もあった。

 

勝も、内乱を長引かせるような過酷な要求は

西郷の手腕で阻止されると考えていた。

 

◇ 勝には、相手が西郷であろうとも

   スキを見せれば、すぐつけ込んで

    好条件を獲得しようという

   交渉人としてのすごみがあった。

 

しかし鉄舟には良くも悪くも

勝のような山っ気はなかった。

 

西郷は彰義隊の説得や脱走する

幕臣への対応を鉄舟に依頼した。

 

鉄舟もこれに応じた。

 

◇ 鉄舟は1873年(明治5年)に

    明治天皇教育のための侍従に

    登用された。

 

依頼したのは西郷で、

明治以降は「人事ベタ」と酷評された西郷の、

数少ないヒット人事と言われている。

 

鉄舟は最初断わったが、

西郷、大久保利通が熱心に勧め、

 

勝も説得役となり「10年」という

期限つきで引き受けた。

 

◇ 若いころの明治天皇は臣下と

   相撲を取るなどなかなかの武断派であり、

  しかもワイン好きな酒豪家でもあったという。

 

鉄舟は情愛を持って養育係を

引き受けた。

 

ただし深夜2時、3時まで痛飲する

明治天皇を面と向かっていさめるなど

厳しい一面も見せた。

 

◇ 明治政府に仕えた幕臣には

    勝や榎本武揚らがいる。

 

彼らは後に福沢諭吉の

「痩(やせ)我慢の説」で

痛烈に批判される。

 

鉄舟は福沢の非難対象に入っていないが、

どう考えていたのだろうか。

 

鉄舟は自己正当化するような人物ではない。

 

勝が鉄舟の出処進退について

 

「彼の心中には真の武士道がある。

   武士道には形もあれば心もある。

    形は心の発動だ。

 その精神さえ一定不変であれば、

 形は臨機応変なものだ」

 

と代弁している。

 

◇ 鉄舟の軌跡から現在のビジネスパーソンが

   くみ取るべき教訓は何だろうか。

 

「最後まで人間性の修養を怠らないこと」

 

この一言につきる。

 

鉄舟は若い時分には尊皇攘夷の

危険人物として幕府からにらまれた。

 

しかし、意に介さず

一心に剣禅一如の修行を続けた。

 

約束通り宮内庁を辞職した鉄舟は、

剣と精神修行の道場として

「春風館」を設立。

 

その一貫した清々しい姿勢こそ

「始末に困る人」の真骨頂ということになる。

 

それが世俗的立場を超えて、

現代でも多くの人たちの心をとらえて

やまない魅力なのだろう。

 

こういう人物を組織の要所に

もつことができれば、

 

企業の不祥事なども未然に防ぐことが

できるのではないだろうか。 

 

今日一日の人生を大切に!

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