人間は死ぬまで受身「 I was born 」 vol.353

 

本日は、トンビの好きな詩を紹介する。

 

  確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

              ある夏の宵。 

 

父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 

青い夕靄(ゆうもや)の奥から浮き出るように 

白い女がこっちへやってくる。 

 

物憂げに ゆっくりと

女は身重らしかった。

 

父に気兼ねをしながらも

僕は女の腹から眼をはなさなかった。

 

頭を下にした胎児の 

柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し 

 

それがやがて 世に生まれ出ることの

不思議に打たれていた。

 

      女はゆき過ぎた。

 

少年の思いは飛躍しやすい。

 

その時 僕は 「生まれる」ということが 

まさに「受身」である訳を ふと諒解した。

 

僕は興奮して父に話しかけた。

 

やっぱり「 I was  born 」 なんだね。

 

父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。

 

僕は繰り返した。 

 

「 I was born 」さ。

 

受身形だよ。

 

正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。

 

自分の意志ではないんだね。

 

その時 どんな驚きで 

父は息子の言葉を聞いたか。

 

僕の表情が単に無邪気として

父の眼にうつり得たか。

 

それを察するには 

僕はまだ余りに幼かった。

 

僕にとってこの事は文法上の

単純な発見に過ぎなかったのだから。

 

父は無言で暫く歩いた後、

思いがけない話をした。

 

蜉蝣(かげろう)という虫はね。

 

生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが、

 

それなら一体 何の為に

世の中に出てくるのかと 

 

そんな事がひどく気になった頃があってね。

 

僕は父を見た。

 

父は続けた。

 

友人にその話しをしたら ある日 

これが蜉蝣の雌だといって

拡大鏡で見せてくれた。

 

説明によると 

口は全く退化して食物を摂るに適していない。

 

胃の腑を開いても 

入っているものは空気ばかり。

 

見ると その通りなんだ。

 

ところが 卵だけは腹の中に

ぎっしり充満していて 

 

ほっそりとした胸の方にまでおよんでいる。

 

それはまるで 目まぐるしく繰りかえされる

生き死にの悲しみが のどもとまで 

こみ上げているように見えるのだ。 

 

淋しい 光りの粒々だったね。

 

私が友人の方を振り向いて

「卵」というと 

彼も頷いて答えた。

 

「せつなげだね」

 

そんなことがあってから

間もなくのことだったんだよ。

 

お母さんがお前を生み落として

すぐに死なれたのは。

 

父の話のそれからあとは 

もう覚えていない。

 

ただひとつの痛みのように切なく 

僕の脳裏にやきついたものがあった。

 

ほっそりとした母の 胸の方まで 

息苦しくふさいでいた白い僕の肉体。

                             吉野弘 詩集より

 

 

◇ この詩にふれると気づくことがある。

 

  人間は生まれるときだけでなく、

  死ぬまで受身であり、生かされているのだと。

 

このことに気づくまでに

多くの時間を要してしまった。

 

 

今日一日の人生を大切に!

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