◇トンビはかねてから
こうした疑問を持っていたが、
それに明確に答えてくれる本があった。
それは、遠藤誉氏の
『中国製造2025の衝撃(PHP研究所)』だ。
この本は、中国政府が掲げる
国家的な発展計画、「中国製造2025」の
基盤となっているものが見えてくる。
◇そのひとつは、
文化大革命後の人材流出と、
1990年代終わりから始まる
その激しい帰還の流れである。
周知のように中華人民共和国が
建国されたのは、1949年である。
そして、建国間もない1953年から
1957年にかけて実行されたのが、
「第一次5カ年計画」であった。
この期間、ソ連の援助もあって、
戦乱で荒廃した国土の復興が進み、
経済は大きく成長した。
そして、社会主義経済の移行も始まった。
この結果におおいに満足した毛沢東は、
1958年からは、「大躍進政策」と
呼ばれる極端な政策を推し進めた。
社会主義化を一層推し進めると同時に、
中国を一気に工業化して、
15年でイギリスに追いつく
水準にするというものだった。
◇しかし、その結果は惨憺たるものだった。
農村では原始的な鉄の生産などが
強制されたため、
食料生産は大きく落ち込んだ。
その結果、4,500万人が餓死した。
「大躍進政策」は1961年まで続いた。
その後、この政策の間違いに気づいた共産党は、
毛沢東に代わり劉少奇を国家主席に選んだ。
劉少奇は私有財産を認めて
経済の自由化を推進し、
経済は回復して成長した。
しかし、権力の喪失を恐れた毛沢東は、
青年層の感情に訴えて
勢力の盛り返しを図ろうとし、
新たな革命を宣言した。
「文化大革命」である。
◇毛沢東の熱狂的な信者である
「紅衛兵」によって推し進められた
毛沢東主義の革命は、
毛沢東本人の予想を越えて進行し、
全国の大学は閉鎖され、
学生は地方の農村に
農業労働力として強制的に送られた。
これが「下放」である。
「文化大革命」は1977年まで
10年間続いたものの、
この間に中国経済は大きく落ち込み、
停滞した。
◇そして、鄧小平が権力を掌握し、
現在に続く「改革解放政策」の実施を
宣言した3年後の1981年から
海外留学制度が始まり、
その後、留学許可の枠は順次拡大した。
これに応じたのは、農村に「下放」され、
「文化大革命」の10年間、
学習の機会を完全に奪われていた
大学生であった。
◇その後、学生による留学ラッシュが始まった。
そして、多くの学生は、
ハーバード、MIT、スタンフォードといった
アメリカの名門校への入学を果たし、
PhDを取得するものも多く現れた。
*PhD : Doctor of Philosophy
(博士水準の学位)
そうした人々のうち、相当数が
当時は勃興期にあった
シリコンバレーの企業に就職し、
最先端テクノロジーの開発に携わった。
また、後に注目されるベンチャーを
立ち上げたものも多い。
つづく
今日一日の人生を大切に!
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