ファーウェイ排除しても中国が5Gで覇権国家となる理由 ④ vol.500

 

トンビはかねてから

     こうした疑問を持っていたが、

     それに明確に答えてくれる本があった。

 

それは、遠藤誉氏の

『中国製造2025の衝撃(PHP研究所)』だ。

 

この本は、中国政府が掲げる

国家的な発展計画、「中国製造2025

基盤となっているものが見えてくる。

 

そのひとつは、

    文化大革命後の人材流出と、

 

1990年代終わりから始まる

その激しい帰還の流れである。

 

周知のように中華人民共和国が

建国されたのは、1949年である。

 

そして、建国間もない1953年から

1957年にかけて実行されたのが、

「第一次5カ年計画」であった。

 

この期間、ソ連の援助もあって、

戦乱で荒廃した国土の復興が進み、

経済は大きく成長した。

 

そして、社会主義経済の移行も始まった。

 

この結果におおいに満足した毛沢東は、

1958年からは、「大躍進政策」

呼ばれる極端な政策を推し進めた。

 

社会主義化を一層推し進めると同時に、

中国を一気に工業化して、

 

15年でイギリスに追いつく

水準にするというものだった。

 

しかし、その結果は惨憺たるものだった。

 

農村では原始的な鉄の生産などが

強制されたため、

食料生産は大きく落ち込んだ。

 

その結果、4,500万人が餓死した。

 

「大躍進政策」1961年まで続いた。

 

その後、この政策の間違いに気づいた共産党は、

毛沢東に代わり劉少奇を国家主席に選んだ。

 

劉少奇は私有財産を認めて

経済の自由化を推進し、

経済は回復して成長した。

 

しかし、権力の喪失を恐れた毛沢東は、

青年層の感情に訴えて

勢力の盛り返しを図ろうとし、

新たな革命を宣言した。

 

「文化大革命」である。

 

毛沢東の熱狂的な信者である

「紅衛兵」によって推し進められた

毛沢東主義の革命は、

 

毛沢東本人の予想を越えて進行し、

全国の大学は閉鎖され、

 

学生は地方の農村に

農業労働力として強制的に送られた。

 

これが「下放」である。

 

「文化大革命」1977年まで

10年間続いたものの、

 

この間に中国経済は大きく落ち込み、

停滞した。

 

そして、鄧小平が権力を掌握し、

    現在に続く「改革解放政策」の実施を

    宣言した3年後の1981年から

    海外留学制度が始まり、

   その後、留学許可の枠は順次拡大した。

 

これに応じたのは、農村に「下放」され、

「文化大革命」10年間、

学習の機会を完全に奪われていた

大学生であった。

 

その後、学生による留学ラッシュが始まった。

 

そして、多くの学生は、

ハーバード、MIT、スタンフォードといった

アメリカの名門校への入学を果たし、

PhDを取得するものも多く現れた。

*PhD :  Doctor of Philosophy    
    (博士水準の学位)

 

そうした人々のうち、相当数が

当時は勃興期にあった

シリコンバレーの企業に就職し、

最先端テクノロジーの開発に携わった。

 

また、後に注目されるベンチャーを

立ち上げたものも多い。

                             つづく

 

 

今日一日の人生を大切に!

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