◇ 田中角栄には3人の女性がいた。
角栄が24歳のとき結婚した、はな夫人。
田中派の金庫番として角栄を支えた、佐藤明子。
さらに、神楽坂の花柳界に生きた、辻和子である。
◇ 8歳年上の はな夫人は1941年、
飯田橋に角栄が構えた
「田中建築事務所」の家主の娘だった。
はなとの間には、長男・政法がいた。
だが、5歳で夭折。
角栄は長女・眞紀子を溺愛した。
角栄は結婚時、はな夫人から
「3つの誓い」をさせられた。
「ひとつ、出て行けと言わぬこと
二つ、足蹴にしないこと
三つ、将来、角栄が二重橋を渡るときは、
私を同伴すること。
それ以外のことについては、
どんなことがあっても
耐えてついていきます」
◇ 新潟県柏崎市出身の佐藤明子は
角栄の10歳年下である。
1946年の衆院初出馬を手伝った彼女は、
その後、角栄が1985年に脳梗塞で
倒れるまで、秘書として仕えた。
角栄との間に1女をもうけた彼女だが、
その存在はあくまで「黒子」であった。
だが、1974年、月刊誌で
「越山会の女王」と書かれたのを機に、
その存在が一般にも知られていくようになる。
◇ 神楽坂の花柳界に生きた辻和子は、
戦後角栄に見初められ、2人の息子をもうけた。
総理大臣になる前、角栄は神楽坂から
国会に通うこともしばしばあった。
日本でも珍しい「逆転式一方通行」
つまり午前と午後で一方通行の進行方向が
変わる神楽坂の変則的な交通システムは
「田中角栄の政治力」のよって決められた
という伝説はいまでも信じられている。
角栄が朝、国会に行きやすいように、
神楽坂を車で下れるようにした
というのがその根拠である。
◇ 角栄を愛し、愛された女たちは
2010年までに鬼籍に入った。
複数の女性に愛情を注いだ角栄に対し、
彼女たちがこう思わなかったはずがない。
「あなたにとって、
私とはどういう存在なのでしょうか」
だが、その問いに答えはもう必要ない。
角栄の愛はすべてが本物であり、
そこにウソはなかったのである。
たぶん
*今日一日の人生を大切に!
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