田中角栄の愛した3人の女   vol.63

◇ 田中角栄には3人の女性がいた。

 

  角栄が24歳のとき結婚した、はな夫人。

  田中派の金庫番として角栄を支えた、佐藤明子。

  さらに、神楽坂の花柳界に生きた、辻和子である。

 

◇ 8歳年上の はな夫人は1941年、

    飯田橋に角栄が構えた

  「田中建築事務所」の家主の娘だった。

 

    はなとの間には、長男・政法がいた。

 

          だが、5歳で夭折。

 

    角栄は長女・眞紀子を溺愛した。

 

   角栄は結婚時、はな夫人から

 「3つの誓い」をさせられた。

 

 「ひとつ、出て行けと言わぬこと

     二つ、足蹴にしないこと

    三つ、将来、角栄が二重橋を渡るときは、

    私を同伴すること。

    それ以外のことについては、

  どんなことがあっても

            耐えてついていきます」

 

◇ 新潟県柏崎市出身の佐藤明子は

    角栄の10歳年下である。

 

   1946年の衆院初出馬を手伝った彼女は、

   その後、角栄が1985年に脳梗塞で

   倒れるまで、秘書として仕えた。

 

   角栄との間に1女をもうけた彼女だが、

   その存在はあくまで「黒子」であった。

 

   だが、1974年、月刊誌で

 「越山会の女王」と書かれたのを機に、

  その存在が一般にも知られていくようになる。

 

◇ 神楽坂の花柳界に生きた辻和子は、

   戦後角栄に見初められ、2人の息子をもうけた。

 

    総理大臣になる前、角栄は神楽坂から

    国会に通うこともしばしばあった。

 

    日本でも珍しい「逆転式一方通行」

    つまり午前と午後で一方通行の進行方向が

    変わる神楽坂の変則的な交通システムは

  「田中角栄の政治力」のよって決められた

    という伝説はいまでも信じられている。

 

    角栄が朝、国会に行きやすいように、

    神楽坂を車で下れるようにした

    というのがその根拠である。

 

◇  角栄を愛し、愛された女たちは

     2010年までに鬼籍に入った。

 

    複数の女性に愛情を注いだ角栄に対し、

    彼女たちがこう思わなかったはずがない。

 

  「あなたにとって、

        私とはどういう存在なのでしょうか」

 

  だが、その問いに答えはもう必要ない。

 

   角栄の愛はすべてが本物であり、

   そこにウソはなかったのである。

              たぶん

*今日一日の人生を大切に!

スポンサードリンク

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください