「入門」という言葉のいわれ vol.965

小学校低学年の児童には、

  「人」と「入」の区別がつきにくい。

 

たしかにその二つの漢字は

見かけ上では長い線が左に流れるか

右に流れるかだけの違いである。

 

かつての人気番組で金八先生は、

 

 「人」は二人の人間が

  互いに支え合っている形だ、と語った。

 

その説明は実は「入」という

漢字にも適用できる。

 

だが、その二文字の成り立ちは

まったく異る。

 

「人」は人間が立っている形を

 側面から描いた文字であるのに対して、

 

「入」は部屋の入口をかたどった文字で、

 その「入」に建物の形を加えると

 「内」 になる。

 

むかしある人が、

 

「皆さんは孔子が立派な人物だと言うが、

   弟子の子貢の方がもっとすぐれている」

 

 と語り、

 

その話をきいた人が

それを子貢に伝えたところ、

 

子貢は自分と孔子の人徳を、

宮殿の塀と建築物の例で説明した。

 

いわく、

 

 自分の宮殿は塀の高さが

 せいぜい肩くらいまでしかないから、

 

 中にある建物を塀の外からでも

 見ることができる。

 

しかし先生(孔子)の宮殿は

高い塀に囲まれているから、

 

門から入らない限り、

中の美しさは素晴らしさはわからない。

 

ただその宮殿につながる門を

見つける人間が、

なかなかいないのである、と。

 

孔子が持つ奥深い世界を

    理解するためには、

 

まずその宮殿の「門」から

入らなければならないというので、

 

ここから「入門」という言葉ができた。

 

同じく孔子の弟子である子路には

 「瑟(しつ)」という大形の琴を

 弾く趣味があった。

 

しかしその技量はそれほど

すぐれたものではなかった。

 

そこで孔子は彼の演奏について、

 

「堂に升(のぼ)れり、

    いまだ室に入らず」

 

と表現した。

 

ここでいう「堂」とは

 表座敷すなわち客間のことであり、

 

「室」とはその堂の北側にある

 小さな奥座敷の部屋を指す。

 

つまり孔子は子路の瑟の腕前が

すでに「入門」段階を通りこしており、

 

客間にあがれるほどにはなっているが、

まだ奥義をきわめてはいない

ということを述べたのである。

 

「入門」期をすぎたら、

 

 次は「升堂」(しょうどう)

 目指せというわけだ。

 

 

今日一日の人生を大切に!

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