先達はあらまほしきことなり   vol.874

先日、時間を見つけて

 『NHK100de名著」ブックス

  兼好法師 徒然草

    を読んでいたら

 

 その中に、

「仁和寺にある法師」から始まる、

 あの有名な言葉(第五十二段)が

 紹介されていた。

 

 ———————–

 

仁和寺にある法師、

年よるまで

石清水を拝まざりければ、

心うく覚えて、

或る時思ひ立ちて、

ただひとりかちよりまうでけり。

 

極楽寺、高良などを拝みて、

かばかりと心得て帰りにけり。

 

さてかたへの人にあひて、

「年頃思ひつることはたし侍りぬ。

 聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。

そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、

 何事かありけむ。

 ゆかしかりしかど、神へ参るこそ

本意なれと思ひて、山までは見ず」

 

とぞいひける。

 

すこしのことにも、

先達はあらまほしきことなり。

 (『徒然草』第五二段)

 ———————–

 

口語訳として、同著に

 紹介されていたのが以下の言葉。

 ———————–

   

仁和寺にいる法師が、

年をとるまで

石清水八幡宮を拝んだことがなかったので、

嘆かわしく思って、

ある時思い立って、

ただ一人徒歩で参詣したそうだ。

 

麓の神宮寺の極楽寺と

摂社の高良大明神だけを拝んで、

これだけのものと思い込んで

帰ってしまった。

 

それで仲間にむかって、

「長年思っていたことを果たしました。

 聞きしにまさって尊くございました。

 

 それにしても、参詣していた人びとが

 みな山へ登っていたのは、

 何事があったのだろうか。

 

 知りたかったけれど、

 神へお参りするのが目的だと思って、

 山のほうまでは見なかったのです」

 といったそうだ。

 

 わずかなことにも、

 その道の案内人はいてほしいものである。 

 ———————–

せっかく石清水八幡宮まで

  赴いたが、

 

 一番の目的地であるべき

 山の上の本社には訪れず、

 

麓の寺と摂社にだけ参って

参ったつもりになっているという、

 

まさに漫画みたいな話だ。

 

こうした話が紹介された後、

 

「すこしのことにも、

 先達はあらまほしきことなり」

 

 の言葉が登場するわけであるが、

 

このような流れから、

どんなことであれ、自分一人で

全てを理解することはできない、

(知らないことはわからない)

 

だからこそ、

水先案内人が必要である、

 

という教えが説かれている。

 

この話を通して連想した言葉に

 「蛇の道は蛇」

 というものがある。

 

知っている人にとっては

常識であっても、

 

そうでない人にとっては

まるで不案内、

 

ということは日常的にある。

 

そして、すべての人は、

 

「ある分野においては

 精通していても、

 

 別の分野においては

 ド素人か素人同然」

 

世の中には無数の専門分野が

あるので当然だろう。

 

こうした理(ことわり)を知らず、

 すべてを自分で学ぼう、

 理解しよう(そしてそれができる)

 というところからして、

 

すでに

「人生を生きる上での

  ボタンの掛け違い」

 

生じていることに

気がつけるかどうかが、

 

「人生を機嫌よく生きていけるか

 否かの分水嶺」

 

となることは、

案外に知られていない。

 

知らない、わからないことは

 素直に認める、

 

 恥ずかしがらず、

 知ったかぶりもせず、

 

謙虚に、素直に、

その道を専門とする方から教わる、

 

そんな姿勢を保つよう、

努めることが肝要だ。

 

今日一日の人生を大切に!

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