江戸の武士の原形は濃尾平野で生まれた!       vol.205

 

◇ 江戸時代の日本人にとって、

  藩は目的達成のためにつくられた

  大規模な組織として存在していた。

 

  その意味で、江戸時代の藩は

  日本独自の文化なのだ。

 

◇ その文化が江戸時代に生まれて

 育ったのかというとそうではない。

 

 最初に武士と藩を結びつけたのは、

   濃尾平野の織田信長であった。

 

  それを豊臣秀吉が改良。

 

  徳川家康がそのシステムを全国展開した。

 

それまでの中世の武士は「主従制」であったが、

近世の武士は「殿様と家来の主従関係」であり、

そこには大きな違いがあった。

 

◇ 江戸時代の武士は、

 どんな武士の集団かというと、

 非常に集権的だ。

 

  つまり、主君が絶対。

 

  まず、   お城がある。

 

その下に、城下町があって

 

殿様に

「おまえ、この屋敷に住め」

       といわれて、

 

ほとんどの家来が近隣に住んでいた。

 

槍や鉄砲の足軽組に稽古をつけて

常に臨戦態勢でいたわけだ。

 

家臣のほとんどが、いつも近所に

同居している絶対的主従制なのだ。

 

この君主絶対の組織は家族的な意識を持ち、

「家中」をなしていた。

 

◇ 中世までは、主君のもとに家臣の

 大半が常駐していることは、

 当たり前ではなかった。

 

中世らしい武士団というのは、

 

「必要な時に呼ばれたらいきます」

 

という主従関係であった。

 

家来は君主のもとに常駐しているとはかぎらない。

 

甲斐の武田氏であれば、甲斐信濃の国人が

ぞろぞろお館にあつまってくる。

 

東北の伊達でも、越後の上杉でも、

広島の毛利も似たようなところがあった。

 

都から遠い辺境地域はみなそんな感じであった。

 

では、 なぜそうなるのか?

 

それは、領地で農業をやっているからだ。

 

君主に呼び出されたときだけ、

そのときだけ

 

「いざ鎌倉」 とか 「いざ甲府」

に出ていく。

 

しかしそのうちに田植えの時期になると

みんなそわそわしだす。

 

大雨が降っても心配だし、日照りが続いても

地元の事が心配でたまらない。

 

 そわそわ  そわそわで 

 

当然、戦いどころではなくなる。

 

早く地元に帰りたい!

 

これでは天下はとれない。

 

◇ これは日本だけでなく、

 ヨーロッパも同じだ。

 

  ほ ~~~~

 

   18世紀までのヨーロッパの戦争は、

   いわば「国王の戦争」

 いうべきものであった。

 

  兵士は農業に携わるものが多く、

  たいていは農閑期に戦うのが主であった。

 

  長引いたとしても農繁期が近づくと

  兵士が浮き足だってしまう。

 

心配で そわそわ そわそわ 

そこで、そろそろ この辺でということに、

お互いに そのようになり、

 

 いい感じで自然と終戦に向う。

 

   ほ ~~~~

 

◇ ところが、日本の濃尾平野は

  ちょっと状況が違っていた。

 

   濃尾は一面が平野なのだ。

 

  ひたすら平地。

 

  ほとんど坂がない。

 

そのため集権的な組織ができやすい。

 

暇さえあれば城下町で一致団結して、

戦闘訓練をやることができた。

 

だから濃尾地方タイプの武士の集団に

鉄砲を持たせたらその威力は、

当時からすごかった。

 

織田信長の天運

    と

濃尾平野の地政学的ないい条件

 

が結びつき

 

あっという間に天下を統一してしまった。

 

つまりこの集権的な組織が

歴史の大きな転換点となったということだ。

 

 

*今日一日の人生を大切に!

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