◇ 桐一葉・
落ちて天下の秋を知る
という言葉がある。
この言葉の生みの親は、
最後の相場師とも言われた
立花証券の元会長、
故・石井久氏 である。
昭和28年のスターリン死亡を
きっかけに起きた株の大暴落、
いわゆる「スターリン暴落」を予想し、
的中させた人物として知られている。
◇ 当時のことを、石井氏自身が、
こう振り返っている。
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昭和二十七年になると、
私は株式新聞の仕事に
専念するようになった。
私を評価してチャンスを与えて下さった
小玉社長への恩返しのつもりだった。
条件は
「編集を任せてもらう」
「退却ラッパを吹いたら辞める」
この二つ。
採用後、株式新聞に書きながら
地方の証券会社が主催する講演会に
呼ばれて全国を回った。
交通事情の悪かった当時のこと、
泊まり掛けの出張が多かったから、
一年で三百日は
家を留守にする強行軍だった。
講演の最後には必ず
「新聞を取って下さい。
年間千数百円で皆さんの財産が
保全されれば保険料としては安いはず。
退却ラッパを吹くので
しっかりもうけて下さい」
と締めくくった。
◇ いよいよ公約を果たす
時が来た。
ダウ三百六十円を超えて
急騰した相場は、過熱して、
二十八年二月には
次の目標と言ってきた
四百六十八円を達成した。
買いたい投資家が皆買ってしまい、
朝鮮戦争の和平接近の動きを見て
私は総退却を決意した。
◇ 2月11日付
株式新聞のトップに、
「桐一葉・
落ちて天下の秋を知る!」
の見出しで退却ラッパの
記事を書いた。
これをきっかけに相場は
奈落の底に沈んで行った。
3月5日のソ連首相スターリンの死、
3月28日の休戦会談再開提案が
暴落に追い打ちをかけ、
4月1日にはダウ295円18銭まで
突っ込んだ。
わずか二カ月で高値からの
値下がり率37.8%は、
今日なおスターリン暴落として
記録に残っている。
この記事は一週間、
載せる載せないでもめた
いわくつきの記事だった。
編集の記者連中も皆、
掲載に反対だった。
「間違えたら新聞の名声が吹き飛ぶ」
「もっとはっきりしてからでも
いいではないか」
と言うのがその理由だった。
私は
「読者に約束した義務がある」
と小玉社長にかけあって了解を取った。
スターリンの死は余計だったが、
私は読者への約束を果たすことができて
ホッとした。
(立花証券のサイトから引用)
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◇ この
「桐一葉・
落ちて天下の秋を知る」
の記事は、スターリン暴落を
言い当てたとして、
証券界の語り草となっている。
◇ 世の中は陰と陽の繰り返し。
それがわかっているにもかかわらず、
往々にして、
人は世の中の変動に
足をとられてしまう。
なぜだろうか。
思うに、
人の寿命は数十年とか
せいぜい100年であるのに対し、
陰陽が逆転するサイクルは、
それ以上のスパンで
繰り返されることもある。
だから、
大局観を持って、
大きなパターンを認識するのは難しい。
それゆえ人類は、
何回同じことを繰り返しても、
またぞろ同じ轍(わだち)に車輪を
取られることになってしまう。
この度のロシアの暴挙も
然りである。
◇ 人が経験から学ぶには、
人生の上で何度も、
その失敗の教訓が
反映される必要がある。
そのうちに
「こうしてはいけない」
「こんなときは、
こう行動すればいい」
という、
パターン認識 と 教訓の形成
がなされていく。
◇ しかしながら、
バブル期を経ての崩壊などは、
数十年に一度くらいの間隔でしか
起きないため、
人生のうちに多くても
2~3度しか経験できない。
そうなると、
自分の経験から学ぶだけであれば、
時間が足りず、
学習しきれない。
そうなると
失敗の教訓が反映されない。
◇ では、どうしたらいいのか。
同じ失敗をしないためには
歴史から学ぶ以外にない。
自分の見ている時間軸よりも
長い時間軸での学びによって、
より大きなパターンを
認識できるようになる のである。
◇ 資産運用の王道も、
まさにこれではないだろうか。
ここ数年、ないし10年程度の
局地的な視点で見ていたのでは、
ルールが変わって
大きく足をすくわれる、
ということは枚挙にいとまない。
そのたびに今まで
阿鼻叫喚の地獄絵図が
繰り広げられてきた。
◇ そうならぬように
「学ぶべきことを学ぶ」
ことが大切なのではないだろうか。
そして
「学ぶべきは
術ではなく道」
ということ。
今のような先の読めない、
不確実な時代においては
なおのことである。
今日一日の人生を大切に!
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