◇ 幕末・維新の時代に、
徳川幕府と明治新政府の双方から
重用されたのが「江戸無血開城」の
陰の主役 山岡鉄舟 だった。
しかも戦火を交えた敵味方の政権から
ともに人格の高潔さをたたえられるという、
史上まれに見る生きざまだった。
山岡鉄舟の軌跡は現在のビジネスパーソンにも、
さまざまなヒントを与えてくれそうだ。
「山岡鉄舟 決定版」(日本経済新聞出版社)
◇ 西郷隆盛に
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、
命もいらぬ人は始末に困る」
と言わせたのが山岡鉄舟である。
1968年(慶応4年=明治元年)3月に、
官軍を率いて江戸に迫る西郷と、
駿府(静岡市)で最初に直談判したのが
鉄舟であった。
「始末に困る人なければ、
共に天下の大事を
誓い合うわけにはいかない」
と西郷は鉄舟を高く評価した。
鉄舟は、西郷と勝海舟との
江戸城明け渡しの会談にも同席した。
◇ 貧乏な旗本出身だが、剣・禅・書
に通じた無私無欲なサムライであった。
鉄舟の特徴は目先の利害損失を
度外視した人間性にあった。
西郷も事を成就するためには、
自分の生命を投げ出してかかる傾向がある。
西郷は鉄舟の中に相通じるものを
感じたのかもしれない。
◇ 鉄舟の人間性を鍛えたものは
何だったのだろうか。
少年のときから生涯続けた
剣の修行が大きく影響したと思われる。
若い頃は寝ても覚めても剣道を考え、
道を歩いていても竹刀の音がすれば飛び込んで
試合を申し入れ「鬼鉄」と呼ばれた。
剣道は単に試合に勝つとか
段位が上がるといったものだけではない。
鉄舟にとっては「心胆を練る」
精神修養の場であった。
禅も修行し剣禅一如の境地を目指した。
晩年には「一刀正伝無刀流」の開祖となり、
近代剣道にも大きな影響を与えた。
◇1868年1月の鳥羽・伏見の戦いに敗れた
15代将軍・徳川慶喜は、
海路江戸に戻って恭順の意志を示した。
しかし各方面から寄せられる
慶喜助命を要請する声に、
東征中の大総督府の反応は、
はかばかしくなかった。
そこで謹慎中の慶喜の側近から
直接使者を送ることになった。
最初の候補は、精鋭隊を組織して
慶喜からの信頼が厚い
高橋伊勢守(=泥舟)であった。
山岡の義兄で、
同じように誠実剛毅な旗本であった。
神業とまで言われた槍(やり)の達人で、
慶喜に朝廷への恭順を説き、
身辺警護をしていた。
ただ高橋を使者に送ると、
慶喜の安全が心配になる。
幕閣には、慶喜に自殺を勧めようという
密議もあったようだ。
そこで義弟の鉄舟を推薦した。
鉄舟は慶喜と面会し、謹慎の意志に
偽りがないことを確認した。
◇ 鉄舟には、無名の下級幕臣が突然、
歴史の表舞台に登場してきたイメージがある。
無名どころか、幕府中枢にとっては
一種の危険人物であった。
20代の若いころの鉄舟は
「尊皇攘夷」の志士だった。
天皇を尊重し外敵から日本を守るという
当時の最新思想は、倒幕に直結しない限りは
幕府内にも勤王派は少数ながらいた。
◇ 鉄舟は清河八郎ら浪士や
幕臣、薩摩藩士らと
「虎尾(こび)の会」を結成している。
新選組の前身ともいえる
浪士組の誕生にも尽力して、
近藤勇のライバルだった芹沢鴨の
ワガママを諫(いさ)めて、
おとなしくさせていた。
幕臣以外との交友関係も広かったのだろう。
ただ西郷に会う前に鉄舟は
幕府要人と面会して
意志の疎通を図ろうとしたが、
鉄舟の経歴を見れば幕臣とはいえ、
名の知れた剣客で、しかも過激派だ。
危険人物のレッテルが災いして
誰も会ってくれなかった。
例外が幕府の軍事総裁だった勝海舟であった。
つづく
今日一日の人生を大切に!
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