中国人の死生観 ② vol.335

 

◇ 上海のコラムニスト張豊氏は、

    同紙の評論欄 「深観察」 

   この問題を取り上げた。

 

「飛び降りた若い女性と沸き起こる嘲笑 

      魯迅の書いた 『看客』 は

                     アップグレードしたのか」

 

と題する文章で張氏は、

 

中国近代文学を代表する作家の魯迅が

今から96年前の1922年、

 

『吶喊』という短編小説集の序として書いた

「『吶喊』原序」という文章を取り上げている。

 

◇ 魯迅は医学で中国を救い

    近代化を果たそうと日本に留学し

    東北の医学校に在籍するが、

 

その日本である日、

ロシアのスパイを働いた同胞が

日本軍にとらわれ、

 

いままさに斬首されんとする様を、

多くの同胞が取り囲み 無表情、無言 

見物しているニュース写真を見る。

 

魯迅はこれに大きな衝撃を受け、

取り囲む野次馬の同胞を

「看客」すなわち「観客」と称する。

 

そしてこう続ける。

 

「およそ愚劣な国民は

   体格がいかに健全であっても、

   いかに屈強であっても、

    全く無意義の見世物の材料になるか、

    あるいはその観客になるだけのことである。」

            (『吶喊』原序。井上紅梅訳。青空文庫)

 

この一件を機に魯迅は、

「観客」になるだけの国民の精神を改変し

祖国を救うのは医学ではなく文芸だと、

 

文学の道に進むことを決めた。

 

このエピソードは、

太宰治が『惜別』でも書いている。

 

◇ 澎湃新聞コラムニストの張氏は、

 

「多くの人が、今回の飛び降り嘲笑事件と

    魯迅が『吶喊』原序で書いたことを

    関連付けて議論している。

 

   そして大半の人は、魯迅が描いた時代から

   100年後のいまなお、一部の国民は感覚が

   麻痺していて無関心なのかと嘆き、驚いている」

 

と指摘。

 

その上で、

 

「ただ、今回の事件は麻痺しているのでも

   無関心なのでもない。

 

  『ハッピー』であり『カーニバル』なのだ。

 

 『観客』は、無関心よりもさらに悪い

  『消費者』になった。

 

  と断じ、嘆いている。

 

◇ 魯迅と張氏の指摘はその通りだとは思う。

 

 ただ、「観客」たらしめているのは、

 魯迅が指摘するように、

 

人の精神を豊かにする

文学の素養のなさだけなのか。

 

また、張氏が指摘するように、

人の死までをも快楽に換え消費するという、

消費社会の行き着く先のことなのか。

 

トンビはそれだけでは説明がつかないと考える。

 

仮にそれだけならば、中国以外の他の国でも

同じようなことが起きているはずだからだ。

 

「暑いから早く飛び降りろ」

 

  「飛べ!飛べ!」

 

という心ない激しい言葉は、

自ら命を絶つという手段を選択する人を

一気に突き放す、中国人の死生観が、

言わせている部分がたしかにあると思っている。

                                        

◇ ここで改めて、飛び降りて

     自死しようとしている人に対して

    心ない声をかける人たちのことを考えてみると、

 

「自分から死のうとする人は、

                     どうぞ死んでください」

 

という唐突な気持ちが、

激しい言葉を発することに

つながっているのだと、トンビは思う。

 

 「生きていれば世の中楽しいことだって

      あるかもしれないのに、

      死ぬことはないじゃないか。

 

      やめろよ自殺なんてバカなこと。

     そんなことが分からず死のうとしている

     あんたは大馬鹿だよ」

 

という思いが無意識のうちに、

つまり彼らに生きづく死生観にあるのだろう。

                                                   つづく

 

 

今日一日の人生を大切に!

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