◇ 上海のコラムニスト張豊氏は、
同紙の評論欄 「深観察」 で
この問題を取り上げた。
「飛び降りた若い女性と沸き起こる嘲笑
魯迅の書いた 『看客』 は
アップグレードしたのか」
と題する文章で張氏は、
中国近代文学を代表する作家の魯迅が
今から96年前の1922年、
『吶喊』という短編小説集の序として書いた
「『吶喊』原序」という文章を取り上げている。
◇ 魯迅は医学で中国を救い
近代化を果たそうと日本に留学し
東北の医学校に在籍するが、
その日本である日、
ロシアのスパイを働いた同胞が
日本軍にとらわれ、
いままさに斬首されんとする様を、
多くの同胞が取り囲み 無表情、無言 で
見物しているニュース写真を見る。
魯迅はこれに大きな衝撃を受け、
取り囲む野次馬の同胞を
「看客」すなわち「観客」と称する。
そしてこう続ける。
「およそ愚劣な国民は
体格がいかに健全であっても、
いかに屈強であっても、
全く無意義の見世物の材料になるか、
あるいはその観客になるだけのことである。」
(『吶喊』原序。井上紅梅訳。青空文庫)
この一件を機に魯迅は、
「観客」になるだけの国民の精神を改変し
祖国を救うのは医学ではなく文芸だと、
文学の道に進むことを決めた。
このエピソードは、
太宰治が『惜別』でも書いている。
◇ 澎湃新聞コラムニストの張氏は、
「多くの人が、今回の飛び降り嘲笑事件と
魯迅が『吶喊』原序で書いたことを
関連付けて議論している。
そして大半の人は、魯迅が描いた時代から
100年後のいまなお、一部の国民は感覚が
麻痺していて無関心なのかと嘆き、驚いている」
と指摘。
その上で、
「ただ、今回の事件は麻痺しているのでも
無関心なのでもない。
『ハッピー』であり『カーニバル』なのだ。
『観客』は、無関心よりもさらに悪い
『消費者』になった。」
と断じ、嘆いている。
◇ 魯迅と張氏の指摘はその通りだとは思う。
ただ、「観客」たらしめているのは、
魯迅が指摘するように、
人の精神を豊かにする
文学の素養のなさだけなのか。
また、張氏が指摘するように、
人の死までをも快楽に換え消費するという、
消費社会の行き着く先のことなのか。
トンビはそれだけでは説明がつかないと考える。
仮にそれだけならば、中国以外の他の国でも
同じようなことが起きているはずだからだ。
「暑いから早く飛び降りろ」
「飛べ!飛べ!」
という心ない激しい言葉は、
自ら命を絶つという手段を選択する人を
一気に突き放す、中国人の死生観が、
言わせている部分がたしかにあると思っている。
◇ ここで改めて、飛び降りて
自死しようとしている人に対して
心ない声をかける人たちのことを考えてみると、
「自分から死のうとする人は、
どうぞ死んでください」
という唐突な気持ちが、
激しい言葉を発することに
つながっているのだと、トンビは思う。
「生きていれば世の中楽しいことだって
あるかもしれないのに、
死ぬことはないじゃないか。
やめろよ自殺なんてバカなこと。
そんなことが分からず死のうとしている
あんたは大馬鹿だよ」
という思いが無意識のうちに、
つまり彼らに生きづく死生観にあるのだろう。
つづく
今日一日の人生を大切に!
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