◇ 教育とは、
「とてつもなく大胆で
無謀なチャレンジ」
に他ならない。
この認識のギャップを
乗り越えてもらうためには、
教わる側が
「なんだかわけもわからないけれども、
この人は私に対して、何か大切なことを
伝えようとしてくれているようだ」
ということを感じられるくらいに、
教える側が、全力を投入して
思いの丈を相手にぶつけるしかない。
◇ ここまで訴えかけて、
ようやく
「そこまでいうのなら、
なんだか、わけもわからないけれども、
一歩前に、足を踏み出してみようか」
ということになり、
「向う側にある、豊穣な学びの世界」へと
導かれていくこととなるわけだ。
◇ つまり、伝える側からすれば、
伝え手の熱狂によって、
そこに何かがあると感じさせる
より他にない
教師の熱狂だけが、
教育という「絶望的な営み」を
希望に変えられるということになる。
◇ だが、
こうやって最初のハードルは
乗り越えられても、
すぐに次のハードルがやってくる。
それが
「学ぶ人と、その分野との相性」
ということになる。
せっかく教師が熱狂して伝えても、
当人の資質、能力、価値観等によって、
「その分野との相性が合わなかった」
ということが往々にしてあるのである。
この「相性の不一致」が
教育という営みをさらに難しいものとする。
◇ 言葉を換えると、
伝える側は事前に、
「これを学べば、
あなたは絶対にこれを得られます」
と断言はできないということ。
上述の通り、対象となる分野との
相性があるからだ。
これもまた
「教育に内包されている、
構造的、絶対的な矛盾」
ということになる。
◇ ここまでのことが理解された方は
もうお分かりのことだろう。
「真に偉大なる学び手」は、
以上をすべて承知した上で、
あえて
「どう転ぶか分からないけれども、
前に進まなければ分からないのだから、
とりあえず、この人から学んでみよう」
と一歩を踏み出せる人なのだ。
◇ この人は、
・学びにハズレがあるのは当然
・ハズレを織り込まない学び方など
あるはずがない
・むしろほとんどハズレ、でもごくまれに、
人生を変える流れ弾に当たることがある
という世界観で前に進むから、
ここにおいてかえって、
教える側と教わる側との波長が合い、
相互理解が進み、
「教育に内包されている、構造的、
絶対的な矛盾が克服される突破口」
が開かれることとなるのである。
◇ そもそも教育という営みそのものに、
巨大な構造的、絶対的な矛盾が
内包されており、
それゆえ、
人が人に教える、伝えるという行為は、
「とてつもなく大胆で
無謀なチャレンジ」
であるわけだ。
◇ もしあなたが、
このブログを読み、
一定の同意や共感を
感じてくださるのであれば、
何かを掴み取って
頂けるのではないだろうか。
ハズレの確率がないかといえば、
それは保証の限りではないが、
それが教育の本質ということになる。
完
今日一日の人生を大切に!