◇ たとえば高校において、
ある先生が
「物理学の魅力」について全身全霊で語り、
それがきっかけとなって
教え子が物理の道に入り、
長じて、彼が世界を代表する物理学者に
なったとする。
そこまで至ったということは、
物理の魅力に寝食忘れてハマりこんだ、
ということだが、
それほどの魅力を、
生徒は高校時代に感じていたと
思えるだろうか。
◇ もちろん、一定の魅力を感じ、
それがきっかけとなって、
大学入学、さらに卒業して以降も
物理の道を歩むことになったわけだが、
物理学の持つ深遠な魅力的な世界に
興奮し、没頭し、夢中になり、
すべてを捧げようと思った、というような、
そのレベルでの学びの喜びの存在は、
事後的にしかわからなかったはずだと思う。
◇ これは一つの例だが、
何かの世界に没入していった人は、
例外なく、
「分かってから始めたのではなく、
分からないところから始めた」
いう段階から徐々に引き込まれている。
◇ それが学びの本質であるにもかかわらず、
「ある分野に対して、
学ぶ意味も喜びも見いだせないから、
金輪際勉強しません」
ということは、土台、
「学び、という営みの
根本から理解できていない」
といって過言ではないだろう。
学びの根本を理解していないため、
学びに対して、意義も、意味も、
喜びも、楽しみも感じられるはずがない。
◇ それゆえ、
学ぶ気も起きないから
実際に学ばず、結果も出ないし、
ますます学ぶこと
そのものを否定することになる。
その結果がどうなるのかは、
「推して知るべし」ということだ。
◇ 真摯に教育に携わっている人たちは、
みな、この矛盾に気づいている。
「本来、事後的にしかわからない喜びを、
今、なんとかわからせようとしている」
ということを。
◇ そして学習者は、反対に、
事後的にしかわかり得ないことを、
事前に(今)わかりたいと思い、
今わからないものは勉強したくない、
と考える。
◇ かくして、教育とは
「教える側と教わる側」の間に
「真逆といえるくらいの認識の相違」
があるところから始めなければならない。
そんな
「とてつもなく大胆で
無謀なチャレンジ」
ということになる。
つづく
今日一日の人生を大切に!