◇ 本日から3回に渡って、
「学び」について、
一考してみることにする。
◇ トンビは常日頃、
「すべての学びにおいて、
その価値や、意味や、喜びは、
事後的にしか分からない」
と考えている。
本当に価値ある学びは、
「これを学んだら、これだけの価値が
得られるはずだから学ぼう!」
という流れから生まれるものではない。
◇ はじめは、
両親や先生、先輩や友人から、
わけもわからないけれども、
導かれるようにして、
わけのわからない学びを始める。
これが学習の事始め、スタートになる。
◇ たとえば、学校でわけもわからず、
先生から半強制的に言われて、
古文・漢文の勉強をさせられ、
歴史の勉強をさせられ、
数学の勉強をさせられ、
化学の勉強をさせられ、
あるいは家庭内でもわけもわからず、
両親から言われて、
読書の世界に触れさせられ、
音楽の世界に触れさせられ、
絵画の世界に触れさせられ、
そのようなことに触れていくうちに、
いつの間にやら徐々に、
それも事後的に
「あれ、これ面白いかも」
という分野が浮き彫りになり、
そのタイミングで
主体的な学習が発動されることになる。
◇ ここでのポイントは,
はじめから
その面白さを分かっていて、
当該分野の勉強を主体的に
始めようと思ったのではない、
ということ。
つまり、どんな分野に対して
興味関心を持つことになるのかは、
「先生も両親はもちろん、本人も、
はじめはなんにもわかっていない」
ところから学びは始まる。
◇ たとえば、
トンビが勉強会を主催したとして、
「この勉強会は、
私にとって役に立つのでしょうか?」
と質問されても、
トンビが真摯に、誠実に
回答しようとするならば、
「それは わかりません」
と答えるしかない。
それが教育というものの
本質ではなかろうか。
◇ 先述のように
ある人が、どんな分野に対して
興味関心を持つことになるのかは、
先生も両親も、もちろん本人も、
はじめは なんにもわかっていない。
そうしたところから、
学びは始まるのである。
つづく
今日一日の人生を大切に!