◇ 最大の誤算は西軍首脳の
戦略目標にブレがあった点だ。
西軍首脳に数えられるのは
三成のほか、
毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、
小西行長、安国寺恵瓊--と多い。
三成が考えていつ方針で
皆が一致したわけではなかった。
これまでは
三成が「反徳川」のリーダーとして、
毛利や宇喜多らを誘い込んで
関ケ原の戦いに臨んだと、
説明されてきた。
しかし
「秀吉死後の権力闘争と関ケ原前夜」の
(日本史史料研究会)
水野伍貴氏は、
「三成は西軍首脳の1人ではあっても
首謀者ではない」という。
単独で反徳川闘争を始動し、
後から大々名へ協力を呼びかけるような
無謀な人物ではなく、
むしろ毛利、宇喜多ら大老グループが
積極的だったため連携に踏み切ったという。
西軍は共同謀議で決起したが、
豊臣家を守るという三成の思惑と、
毛利家を拡大したいという輝元の思惑が、
異なる同床異夢状態が
西軍の弱点だった。
◇ その毛利輝元が、
家康との不戦協定へ
スタンスを変えていく。
その理由は、
(1)上杉征討軍のほとんどが
そのまま家康に従ったこと
(2)岐阜城が簡単に陥落したこと
(3)大津城・京極氏の離反――
といった西軍の予想外の
不利な状況が続いていたためである。
従来は毛利一族の武将であった
吉川広家が、
独断で黒田長政ら東軍と交渉したと
されてきたが、
最新の研究では輝元自身の指示で
吉川広家が動いたとされる。
輝元が信頼する側近で、
戦後には西軍首脳の1人として
処刑される安国寺恵瓊も、
そうした自軍の動きを黙認していたという。
◇ 結局「毛利軍の不戦」と
「小早川秀秋の裏切り」が
関ケ原合戦の東軍勝利を
決めたのは周知の通りだ。
だが戦後処理は輝元の期待と裏腹に
領国を約3分の1に減封されるという、
結果に終わった。
三成の戦略ミスがなければ、
歴史は大きく変わることになる。
完
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