◇ 平成元年の天安門事件で
世界の信用を失ったものの、
その後驚異的な成長力で
GDP世界第2位にまで上り詰めた中国。
しかしそのきっかけとなったのが、
1992年の「天皇訪中」であったことは、
あまり知られていない。
◇ 平成は1989年1月7日から始まった。
この年の6月4日、
中国では天安門事件が起こった。
この事件で民主活動を弾圧し、
学生を含め多くの人民を殺した中国は、
欧米諸国から厳しい非難を浴び、
経済制裁や政府高官訪問禁止などの
措置を受けた。
◇ 西側諸国からの制裁により
国際社会で孤立した中国は、
悪化したイメージを回復させるために、
天皇の訪中を繰り返し要請、
そしてついに平成4(1992)年10月、
宮沢喜一内閣時に天皇陛下の
中国ご訪問が実現した。
この天皇訪中をきっかけに、
西側諸国による中国への制裁は
次第に解除されていくことになる。
◇ 日本の天皇が中国を
ご訪問されたということは、
世界的に見てそれほど大きなことであった。
実際、外相だった銭其シンは
その回想録のなかで、
天皇訪中は、
「西側の制裁を打ち破る
最も適切な突破口になった」
と書いている。
つまり天皇訪中を
中国は最大限に利用したことになる。
この天皇訪中の年から中国経済は急回復し、
1995年まで二桁成長が続いた。
中国の思惑は完全に的中したわけだ。
◇ 制裁を解除した西側諸国は、
一転して中国の改革開放政策に傾斜し、
どんどん中国への投資を増やしていった。
こうして中国は急速に
経済発展していくことになる。
そして天皇訪中からわずか20年足らず、
2010年のGDPで中国は日本を抜き、
世界2位にまで上りつめた。
言うなれば、天皇の訪中がなければ、
中国がここまで経済発展することはなかった、
あるいはもっと遅れていたはずだ。
◇ 中国は日本に大きな恩があるはずだが、
国際社会における存在感が増すと同時に、
次第に日本を敵視するようになっていった。
天安門事件での民心離れを修復するために、
江沢民政権では反日教育が施され、
日本を中国人民共通の敵とすることで、
国をまとめようとしたからに他ならない。
片方で伏して
日本の天皇の訪中を懇願しながら、
片方で日本を貶めるという、
中国らしいやり方だが、
あまりに反日教育をやりすぎたために、
その反動も大きいものになった。
つづく
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