◇ 小学校低学年の児童には、
「人」と「入」の区別がつきにくい。
たしかにその二つの漢字は
見かけ上では長い線が左に流れるか
右に流れるかだけの違いである。
◇ かつての人気番組で金八先生は、
「人」は二人の人間が
互いに支え合っている形だ、と語った。
その説明は実は「入」という
漢字にも適用できる。
だが、その二文字の成り立ちは
まったく異る。
「人」は人間が立っている形を
側面から描いた文字であるのに対して、
「入」は部屋の入口をかたどった文字で、
その「入」に建物の形を加えると
「内」 になる。
◇ むかしある人が、
「皆さんは孔子が立派な人物だと言うが、
弟子の子貢の方がもっとすぐれている」
と語り、
その話をきいた人が
それを子貢に伝えたところ、
子貢は自分と孔子の人徳を、
宮殿の塀と建築物の例で説明した。
◇ いわく、
自分の宮殿は塀の高さが
せいぜい肩くらいまでしかないから、
中にある建物を塀の外からでも
見ることができる。
しかし先生(孔子)の宮殿は
高い塀に囲まれているから、
門から入らない限り、
中の美しさは素晴らしさはわからない。
ただその宮殿につながる門を
見つける人間が、
なかなかいないのである、と。
◇ 孔子が持つ奥深い世界を
理解するためには、
まずその宮殿の「門」から
入らなければならないというので、
ここから「入門」という言葉ができた。
◇ 同じく孔子の弟子である子路には
「瑟(しつ)」という大形の琴を
弾く趣味があった。
しかしその技量はそれほど
すぐれたものではなかった。
そこで孔子は彼の演奏について、
「堂に升(のぼ)れり、
いまだ室に入らず」
と表現した。
◇ ここでいう「堂」とは
表座敷すなわち客間のことであり、
「室」とはその堂の北側にある
小さな奥座敷の部屋を指す。
つまり孔子は子路の瑟の腕前が
すでに「入門」段階を通りこしており、
客間にあがれるほどにはなっているが、
まだ奥義をきわめてはいない
ということを述べたのである。
「入門」期をすぎたら、
次は「升堂」(しょうどう)を
目指せというわけだ。
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