◇ 先日、時間を見つけて
『NHK「100分de名著」ブックス
兼好法師 徒然草』
を読んでいたら
その中に、
「仁和寺にある法師」から始まる、
あの有名な言葉(第五十二段)が
紹介されていた。
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仁和寺にある法師、
年よるまで
石清水を拝まざりければ、
心うく覚えて、
或る時思ひ立ちて、
ただひとりかちよりまうでけり。
極楽寺、高良などを拝みて、
かばかりと心得て帰りにけり。
さてかたへの人にあひて、
「年頃思ひつることはたし侍りぬ。
聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。
そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、
何事かありけむ。
ゆかしかりしかど、神へ参るこそ
本意なれと思ひて、山までは見ず」
とぞいひける。
すこしのことにも、
先達はあらまほしきことなり。
(『徒然草』第五二段)
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◇ 口語訳として、同著に
紹介されていたのが以下の言葉。
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仁和寺にいる法師が、
年をとるまで
石清水八幡宮を拝んだことがなかったので、
嘆かわしく思って、
ある時思い立って、
ただ一人徒歩で参詣したそうだ。
麓の神宮寺の極楽寺と
摂社の高良大明神だけを拝んで、
これだけのものと思い込んで
帰ってしまった。
それで仲間にむかって、
「長年思っていたことを果たしました。
聞きしにまさって尊くございました。
それにしても、参詣していた人びとが
みな山へ登っていたのは、
何事があったのだろうか。
知りたかったけれど、
神へお参りするのが目的だと思って、
山のほうまでは見なかったのです」
といったそうだ。
わずかなことにも、
その道の案内人はいてほしいものである。
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◇ せっかく石清水八幡宮まで
赴いたが、
一番の目的地であるべき
山の上の本社には訪れず、
麓の寺と摂社にだけ参って
参ったつもりになっているという、
まさに漫画みたいな話だ。
◇ こうした話が紹介された後、
「すこしのことにも、
先達はあらまほしきことなり」
の言葉が登場するわけであるが、
このような流れから、
どんなことであれ、自分一人で
全てを理解することはできない、
(知らないことはわからない)
だからこそ、
水先案内人が必要である、
という教えが説かれている。
◇ この話を通して連想した言葉に
「蛇の道は蛇」
というものがある。
知っている人にとっては
常識であっても、
そうでない人にとっては
まるで不案内、
ということは日常的にある。
◇ そして、すべての人は、
「ある分野においては
精通していても、
別の分野においては
ド素人か素人同然」
世の中には無数の専門分野が
あるので当然だろう。
◇ こうした理(ことわり)を知らず、
すべてを自分で学ぼう、
理解しよう(そしてそれができる)
というところからして、
すでに
「人生を生きる上での
ボタンの掛け違い」が
生じていることに
気がつけるかどうかが、
「人生を機嫌よく生きていけるか
否かの分水嶺」
となることは、
案外に知られていない。
◇ 知らない、わからないことは
素直に認める、
恥ずかしがらず、
知ったかぶりもせず、
謙虚に、素直に、
その道を専門とする方から教わる、
そんな姿勢を保つよう、
努めることが肝要だ。
今日一日の人生を大切に!