◇『猫の妙術』の新釈版を本日は紹介する。
内容は、ネズミ獲りの名人である
「古猫」が教えを説くという設定だが、
この教えがじつに深い。
◇ 猫の言葉がわかる剣術者、
勝軒(しょうけん)が、
ある日部屋に戻ったら、
そこに猫ほどの大きさの大鼠がいた。
これを退治しようと、
技に長けた「黒猫」
強力な気を持って相手を圧倒する「虎猫」
相手の心に寄り添って和らげてしまう「灰猫」
が挑んだが、
いずれも虚しく、逆襲されてしまった。
◇ 刀折れ矢尽きた勝軒が
ほとほと困っていると、
そこに締まりのない顔をして、
毛並みは悪く、躰はふやけ、
動きも緩慢の「古猫」が現れ、
いとも簡単に大鼠を仕留めてしまった。
なぜ訓練を重ねた強い猫たちが破れ、
古猫が勝てたのか。
本書には、その秘密が書かれている。
武芸の極意ではあるが、
これが現在の競争環境を生き抜く知恵として、
じつに示唆に富んでいる。
ビジネスや生きるうえでぜひ参考にしてほしい。
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◇ 現実とは限りのないものなのじゃ。
鼠の姿や振る舞いもまた無限。
ならばどうする?
技を限りなく増やすのか?
◇ 現実の無限には、
こちらも無限で応じねばならぬ。
そのために身につけなければ
ならぬものこそが、
道理なのじゃ。
鼠を捕るための正しい道理さえ、
身のうち心のうちにあれば、
必要な技など自ずから出る。
自分の知らない技でさえ限りなくな。
こうなって初めて、
現実の無限に無限で
応じることができるじゃろう。
◇ わかっておらぬな。
強い弱いなどというのは、
必ず移り変わる。
自分だけがいつまでも強く、
敵が皆弱いなどということが
あるわけがない。
おぬしの気がいかに強くとも、
必ずそれより強い気の持ち主は現れるのじゃ。
どんなに強くとも、
強さなどというのはその程度のものよ。
◇ 浩然の気は、心の内の道理の
赴くままに振る舞うことで、
どんどん活き活きと働くようになる。
相手より強いかどうかは問題ではない。
どれだけ道理に寄り添うかなのじゃ。
◇ どのようにする、だと。
それがまたいかんのじゃ。
よいか。
考えず、しようとせず、
ただ心の『感』に従って動くのじゃ。
そうすれば、
その自然の中に融け込んで形はなくなる。
形さえなくなれば、
もはや天下に敵無しとなるのじゃ。
◇ そうじゃろうな。
そもそもおぬしは勝つことにこだわり、
その先に何を求めておるのかのう。
名声か、 金か?
心にたとえわずかでも、こうしたい、
というこだわりがあれば、
それは形となって現れる。
そして、その形こそが、
敵だ己だなどというくだらぬ構図を生む。
果たして無意味な技比べが始まりじゃ。
これでは、
自在な変化などできようはずがない。
◇ よいか。
現実も己が心も、
その底にあって動かしておるのは
道理なのじゃ。
道理には決まった形などない。
そこにあるのは変化だけじゃ。
だからこそ、現実は移り変わり、
それに従って心も自然と移り変わる。
変な邪魔さえしなければな。
◇ 『そこ』と『ここ』を分かつのと同じく、
生と死も、分かつから恐ろしいのであろうか。
そもそも、生と死を分けてなんの意味がある。
それを分かとうと分かつまいと、
死ぬ時は死ぬ。
そこを分けて残るのは、
苦しみや恐れだけではないか。
そして、その苦しみや恐れは、
まだ死んでもいないうちから、
『死にたくない』
『死なないためには』などと
頭でっかちで余計な形を生む。
そして、道理の自然な変化から人を引き離し、
生を害する。
◇ 教えとは畢竟、
相手が自分で見ようとしない場所を
指摘することじゃ。
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◇ なぜわれわれが競合と和して
崇高な目的に向かうことができないのか、
なぜ変化に富む環境に、
子どものような気持ちで
立ち向かうことができないのか、
なぜ死ぬことを恐れながら
生きなければならないのか。
この本には名著のエッセンスが
びっしり詰まっている。
これはぜひ、読んでみてほしい。
今日一日の人生を大切に!