◇ 12月23日は天皇誕生日であった。
そしてこの日はもうひとつ
大きな歴史的事実が刻まれている。
この日はA級戦犯七名が
処刑された日でもあった。
GHQの面々は、自分たちがやったことを
歴史に刻みつけようとして、
天皇誕生日のこの日を選んだ。
◇ A級戦犯の七人とは、
広田弘毅を筆頭に、板垣征四郎、
東條英機、松井石根、土肥賢二、
木村兵太郎、武藤彰 らである。
いずれも極東軍事裁判で
絞首刑を宣言された。
◇ 処刑は 昭和23年12月23日
午前0時01分に開始され
33分後に終了した。
それからしばらくして、
米軍トラックが2台、
巣鴨プリズンの門を出て行った。
着いたのは、
横浜市西区の久保山火葬場である。
東京裁判で日本側弁護人であった
三文字正平弁護士は、
なんとか遺骨を回収しようとねらっていた。
たまたま久保山火葬場のすぐ上に
興禅寺という寺があり、
その住職と面識があったため、
その旨を伝えた。
住職は火葬場長と懇意であった。
24日の火葬には火葬場長があったたが、
遺灰は米軍が持ち去ってしまう。
彼らがもっとも恐れていたのは、
七人が殉教者になることだった。
遺灰は飛行機で空から撒くことになっていた。
26日の深夜、火葬場長と住職は、
遺灰が置かれている骨捨て場に裸足で近づく。
そして火かき棒で、
それぞれの遺灰の一部を収納した。
◇ 三文字弁護士は、
ほとぼりがさめるのを待ち、
翌24年5月3日、
熱海の松井邸に向かった。
松井邸には松井夫人のほか、
東條夫人、板垣夫人、木村夫人、
それに広田弘毅の長男が待っていた。
こうして7人の遺灰は
興亜観音に秘匿された。
しかし、占領軍の危惧に反して、
東條らを殉教者として
あがめる風潮は生まれなかった。
◇ 敗戦後、東條の長男の息子、
つまり孫の一人は小学校二年生であったが、
夏休みを終えて教室に行くと、
教師が
「戦犯の孫の担任にはならん」といった。
彼を受け入れる教室はない。
仕方なく運動場で一人で遊ぶ。
「東條君のおじいさんは
泥棒より悪いことをした人です。」
と生徒にそういって教えていた教師もいた。
軍国主義が一転して
民主主義に衣がえしたとき、
その転換には、けじめが必要だった。
そのけじめに
東條を含めた七人があてがわれた。
◇ 昭和57年5月30日
各新聞の死亡欄に東條英機の夫人
「東條カツ」の名がいっせいに載った。
世間をはばかる後半生だった。
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