◇ ジフ・デービスの幹部に
「どこか1社だけオススメの
ベンチャーを教えてくれ」
と孫氏が問うと、社長のエリック・ヒッポーが
生まれたばかりの会社の名を挙げた。
「それならヤフーという面白い会社がある」
1995年11月、米シリコンバレーに飛んだ孫氏は
ヤフーを創業した2人の若者と出会う。
ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロだ。
ともに27歳。
コンピューターと配線が散乱した小さなオフィス。
2人はレストランを予約していたが、
孫氏は「ピザとコーラで十分だ」と告げる。
すぐに2人の話を聞きたいと言う。
スタンフォード大学の大学院生だった2人が
ネット上からウェブサイトのリンクを集めて作った
「ジェリーとデビッドの
ワールド・ワイド・ウェブ・ガイド」
2人がその名を、小説『ガリバー旅行記』に登場する
毛むくじゃらの野蛮人の名を借りて
「ヤフー」と変えたのが94年のことだった。
◇「インターネットは始まりも終わりもない
宇宙のような漠とした存在。
その羅針盤を作ったのがヤフーだった。
「 素晴らしいアイデアだと思ったね」
孫は当時の感動を今も鮮明に覚えている。
すかさず出資と日本進出を持ちかけた。
実は当時、ヤフーには日本の商社など大企業から
同じようなオファーが20件ほど届いていたのだが、
ヤンとファイロはこのせっかちな男と手を組んだ。
「大企業からとやかく指示されるのはごめんだ」
2人の若者のベンチャー気質も、
孫氏をパートナーに選んだ理由だったようだ。
孫氏は社長室長だった井上雅博を2人のもとに送り込み、
ヤフー・ジャパン発足に向けて動き始めた。
ゲイツの助言を頼りに「発見」した
ヤフー1社によって100億円余りの出資が
ピーク時には日本円換算で13兆円にもなった。
額面5万円のヤフー・ジャパンも
上場後の2000年に株価が1億円を付けた。
◇ ヤフー・ジャパンの安定した収益は、
ブロードバンドや携帯電話への参入など
2000年代に入ってからの孫氏の挑戦を
支えることになる。
ただ、孫氏はヤンとの会話の中に
不安の種が潜んでいたことを認めている。
「実はジェリー・ヤンと僕とでは、
ひとつだけ意見が違うことがあったんです」
それが検索エンジンへの考え方だった。
後にこの考えの相違が
米ヤフーの致命傷となるのだが、
この頃はまだ孫もその重要性を見過ごし、
目をつぶってしまっていた。
ところで、
孫氏がジフ・デービス買収を仕掛けた際に
日本興業銀行(現みずほ銀行)の
担当者だったのが、三木谷浩史という行員だった。
米ハーバード大学への留学中に、
ジフ社創業者の息子と知り合ったことが縁だった。
楽天を創業する三木谷浩史氏(1997年ごろ)
孫氏のジフ社買収計画は一度失敗するが、
孫氏はあきらめない。
二転三転しながらも野望を実現していく。
敗北を認めなければ負けはない――。
その姿に三木谷は起業家のあり方を見た。
そして95年1月17日、三木谷の運命が変わる。
この日、孫氏とともにニューヨークに
出張する予定だったが、大地震が故郷・神戸を襲った。
予定をキャンセルして地元に戻った三木谷は、
公民館に並んだ500もの遺体と対面する。
初めて死を意識したという三木谷は
この時の心境を後にこう語った。
「一度きりの人生を思い切り生きなければならない。
いつかではなく、
今すぐにやりたいことをすべきなのだ」
それは三木谷氏が楽天の起業を決意した瞬間だった。
その後の二人の活躍は、ご存知のとおりである。
バランスシートにない資産(情報、人材)が
これからの時代にも最も必要なツールと
なることは間違いない。
完
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