◇ 長州藩が、ふつうの藩とはちがって、
徳川幕府に強い怨念をもっていたことを
示す逸話があります。
長州藩主・毛利家では、
毎年、元旦に、殿様の前に家老が進み出て、
「幕府追討はいかがでございますか」
と問います。
すると、殿様が
「まだ早かろう」 と言って、
今年は倒幕の密勅を起こさないことを
家臣と確認し合うのです。
この掛け合いが、元旦の毛利家の儀式に
なって続いていたというものです。
このような反体制つまり反徳川の空気、
怨念の感情を、長州藩が藩政初期に
持っていたことは非常に重要です。
徳川幕府に対する負の感情は、
やはり、長州藩の特徴といえます。
◇ 長州藩が他の藩と違う点は
大きく二つあります。
ひとつは 「御前会議」 です。
それと もうひとつは、
「西洋式の軍事技術の導入」
を素早く行っている点です。
その中でも、士官学校の導入が早い。
はじめたら、あっという間に
西洋並の軍隊をつくりあげています。
こうした点がやはり、ふつうの藩ではないのです。
◇ まず御前会議ですが、
殿様はふつう、藩政の会議自体に出ない。
歴史小説などでは、長州の最後の殿様、
毛利敬親(たかちか)が「そうせい公」と
呼ばれ、「そうせい、そうせい」と
頷いていて、何もしなかったような
印象を受けますが、そうではありません。
ふつうの藩では、藩主はその会議の
席にいないのが当たり前です。
長州藩主は会議の席に出ていたから
「そうせい公」と呼ばれていたのであって、
これに誰も気づいていません。
殿様の御前に、家老以下の役人が並んで
会議をするのは、当たり前ではないか、
と思われるかもしれません。
しかしこれは幕末の風景としては、
きわめて特異なことでした。
水戸藩や長州藩など「異常な藩」のみ、
御前会議というものが、
しばしば開かれていました。
実は、ほとんどの藩では、藩主が直接、
家老の前に出てきて、意志決定の会議の、
いわば議長席に座っているということは
なかったのです。
今日、閣議をやるのは、総理と大臣だけで、
天皇陛下が閣議に臨席しないのと同じです。
よほど大切な事柄、藩の運命を
きめてしまうようなことがなければ、
藩主の臨席した「御前会議」
といういものは、開かれないのもでした。
ところが、長州藩の場合
藩主がその場にいてさっさと決めるのです。
◇ 最初に月番の家老が
「みなさん、今日は攘夷の決行について
どのようにするか、評議してください」
などと言うのです。
その後、下座、末席の者たちが
はげしく論議して、彼らがいよいよ
疲労してくると、月番の家老が
「だいたいみなさまの意見も出ましたかな」
などといって、意見をまとめはじめます。
家老たちが下の者たちの空気を読んで、
どちらが多数派であるかなどと考えながら、
忖度するのです。
それで最後に、
「では、みなさん、多数のご意見は
こちらのようですから、この場の結論と
して攘夷は決行することにいたします。」
などと言います。
そして、次ぎの瞬間が大変重要です。
そこで、藩主毛利敬親公の声が飛ぶわけです。
「そうせい〜!」 と。
藩主の鶴の一声が出た瞬間、一同は、
反対派も賛成派も一斉に平伏して、
決定に服します。
◇ 他の藩では、こうはいきません。
下の者たちが何時間も議論して、
決まっても、あれは家老が決めたことだから、
といって実行されにっくかったりします。
しかし、長州藩は他の藩とは違います。
藩の意志決定がしっかり決まります。
藩主の御前に下級武士たちの
もっとも優秀な者たちを抜き出してきて、
彼らが実質的に決めて、最後に「そうせい」
ということで藩主のどでかい印鑑が打たれ、
誰もが言うことを聞くという意志決定が
なされていました。
これは長州藩の特徴です。
御前会議で決定して、
藩主が「そうせい」と言うと、
それをやらざるを得ない。
長州藩が、西洋式軍隊を早急に創設
できたのは、意志決定機構がしっかり
できていたためではないか、
といわれています。
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